エンターテイナーとしての鴎外~3

この物語集を読んでいて、鴎外の新しさを発見。(@_@;)たとえば、もう返却してしまったのでいまどうこう言えないが、(上)のなかに、超訳をにおわせる記述があり、超訳と言えば、アカデミー出版の本(1980年代に「ゲームの達人」が大ブレーク)が、有名だが、鴎外の時代にすでにこれを試みたとすればスゴイことだと思う。

 また、(下)の中の「フロルスと賊と」では、文頭に原書にはない人物紹介を書き加えている。鴎外自身、物語の後に『この訳稿の首☆に人物の目録を添えたのは、脚本には有っても、小説には例のないことでうんぬん』と自画自賛している。しかし、これがなければ、後世の読者はみな、最初から、つまり原作者が書いたものと思って仕舞うだろう。

 あっしらの子供のころ、よく物語の始めに、ルイ 悪漢 ベルナール 刑事とか書いてあったのは覚えているが、これらが発表されたのは明治時代である。

 ☆ 首は、はじめ、と読むらしい。

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エンターテーナーとしての鴎外~2

 鴎外の「諸国物語」(下)を読み始める。なかなかの力作揃い。まず「センツァマニ」。これは題名に惹かれて思わずページを繰ってしまった。正しくはセンツァマーニだと思うが、鴎外の時代では無理だ。意味については鴎外自身が文末に「無手の義、即ち手ん坊である。」と書いているが、この語は昨今では禁止用語である。

 あっしはゴーリキーの経歴を知らないが、原作者がイタリアのカプリ島へ行ったときに書いたものらしい。この島には、古来そうした言い伝えでもあるのだろうか。つづいて読んだ「板ばさみ」は、ある新聞のお目付けを命じられた下積み官吏が、新聞社の連中に上手く丸め込まれ、かれらと上司の間で右往左往する悲哀を書いたものだが、官僚嫌いの民主党の天下になった今、このテーマは、ついつい引き込まれてしまう。それを訳す鴎外の筆もなめらかだ。

「戦争と平和」のレフ・トルストイの方でなく、アレクセイ・トルストイの「馬丁」と云う作品もいかにもロシアの農民の、土臭い世界をつぶさに描き出していて興味深い。わかい荘園の主ソバキンは、馬丁のアルヒイブを信頼しているが、ソバキンが自慢の名馬カリオストロの盗難をきっかけに事態は急速に展開。ソバキンは大変な危険を犯し、愛馬を取り戻すのだが…。結末は、主人公ソバキンがアルヒイブに刺されて絶命。混乱に乗じ、アルヒイブは主人の愛馬を厩から引き出し、一鞭当てると、この盗賊の姿はもう誰にも捉えられなかった。

 この愛馬を最初に盗んだオツシカと云う男が、実はアルヒイブの息子だという。盗人へのリンチの様も語られていて、なかなか緊迫感のある作品である。

 しかし、集中の白眉は何といってもドストエフスキーの「鰐」。鴎外はこのワニにえらく難しい字を当てているが、分かりにくいので鰐とした。これはやはり傑作だとみえて、米川正夫訳の「ドストエフスキイ前期短編集」にも採録されている。鰐は米川訳では『鰐 パッサージュにおける突拍子もない出来事』と正確に書かれているが、鴎外訳ではこの長い副題は省略されている。そのほか内容を暗示する数行の説明、フランス語による引用文なども鴎外訳にはない。あるいは、鴎外の使った独訳テキストに、最初から入っていなかったのかも知れぬ。

 この小説に登場する奇妙な事件は、もともとゴーゴリの「鼻」からヒントを得たという。だが、それがゴーゴリのマネに終らず、ドストエフスキーの作品に仕上がっているところは流石だ。

 話の発端は「おれ」の友人、同僚で、親戚でもあるイワン・なんとかウイッチというのが、夫人の頼みで鰐を見に行くところから始まる。当時ロシアには鰐はいなかったのか、この興行主はドイツ人の勘定高い男である。神さんはまたそれに輪をかけたような女である。もともとイワンは休暇をとってヨーロッパ旅行へ出かける直前で、切符も買ってある。

 鰐があまり動かないのに飽きて、夫人は興行主の案内でサルのおりの方へ行く。おりの前に立った夫人は、あのサルはだれそれにそっくり、こちらのサルは隣の奥さんにそっくりなんて具合に一人ではしゃぎ廻ってる最中に、その事故はおこったのだ。いままでジッとしていた鰐が旦那のイワンを足の先からすっかり飲み込んでしまったのだ。金切り声を上げて腹を裂けと云う夫人。おらっちの可愛いカルルが死んでしまう!死んでしまったら一大事、この落とし前をどう付けてくれる、と返って夫人に賠償を要求する構えの興行主。しかも旦那と生き別れになった夫人エレナは絶世の美女。普段から触手を動かす男も少なくないらしい。さて、この結末は?

 なにしろ邦文にして70頁ほどもあるので簡単にお話しするわけにも行かぬ。直接「諸国物語(下)」へアクセスしていただくのが一番。しかし、こんなテーマで、70ページも書けるなんてドストエフスキーはスゴイ。(@_@;)と、ドストエフスキーは長編だけじゃないんだ、と今さら感心した次第。

 作品中にイワンに対する同情より、鰐にたいする思いが、興行主に限らず、仕事場の同僚の中にも強いのは、現在のペットブームを予告していて、これもあっしには、面白く感ぜられた。      (おわり)

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エンターテーナーとしての鴎外

まじめな鴎外ファンからは、恐らく叱正をうけるだろう。でも、あっしにはそう思える。もちろん、云うまでもないことだが、それが彼のすべてではない。

 だが、「諸国物語」二巻によって、鴎外はエンターテーナーとして現前する。石川淳は中学生のとき、まず「即興詩人」を読み、その格調の高さに酔い、常日頃そのうちの幾行かを暗誦し、中学生らしい感興に浸っていたが、この「諸国物語」を知るに及んで、「即興詩人」を捨てたという。それほど彼はこの短編集を買っている。

 この書の下巻は、ロシアの話に限定されているけれど、上巻の多彩さには驚かされる。ポー、リルケ、シュニッツラー、サマンなどの名は大抵ご存じとは思うが、ヴィーズ、ルモニエ、モルナール、ディモフ、エーヴァース、フォルメラーなどは多分ご存じないかもしれない。順にデンマーク、ベルギー、ハンガリー、ロシア、ドイツ、オーストリアの作家である。

 上巻に収められた作品中、エーヴァースの「おれの葬い」、シュトローブルの「刺絡」、フォルメラーの「正体」、モルナールの「破落戸の昇天」などは他の選集、たとえば筑摩の文豪怪談傑作集などに入っていて既読なので、あえてもう一度読もうとは思わなかったので、特にこれといった印象はない。

 ただ、ここに取り上げた二巻は現在絶版になっているので、古書店などでもなかなか手に入らないので非常に貴重だ。あっしはこれを市外の図書館から取り寄せてもらってやっと読むことが出来た。ロシアの作家などは、ほかに二葉亭などという大御所がいるのでその方がいい訳なのだろうが、この選集の価値は、ご覧のように取り上げる作家の間口を大幅に広げ、単に世界作家の展覧会であるだけでなく、小なりといえども、鴎外流の世界文学潮流史といって差し支えないほど、様々な傾向の作家を集めている。池内紀の表現を使えば、世紀末作家をはじめ、自然主義、写実主義、象徴主義、新浪漫主義、新古典主義がそろっている。これは当時これを手にする同時代の作家たちにとって、大きな恵みでもあったことだろう。

 「防火栓」と云う話は、あちらでは別に珍しくもない、サーカス小屋での小事件を描いたものではあるけれど、これが一旦鴎外の手に委ねられると、その訳文はじつに歯切れがよく、読者は商売上手なサーカス団の親方や、機転の利く道化の思いつきなどを、いまその場にいて、目の前に見るようである。

 最後にあっしらのような年代のものに、特にふさわしい読物をひとつ紹介しよう。それはほとんどの方が、その名前をご存知のはずの詩人、ライナー・マリア・リルケの短編「祭日」である。

 舞台ではいま正に礼拝堂で、8年前に世を去った兄の法事が執り行われている。そのあとに未亡人の家で会食が行なわれる。兄の法事に出席した弟のスタニスラウスには、食堂の奥の暗がりに置かれた一脚の椅子が気になって仕方がない。弟は席上、みなの前で兄の冥福を祈り、追悼の言葉を述べる。一同はそのあとグラスを合わす。

 この部屋には亡くなっただれそれの、生前掛けていた椅子がいくつか置いてあり、そのすべてに、人々は次々に個人を偲び、またそれぞれの想い出に浸るのだ。

 ただその部屋には、今までだれも坐ったことのない椅子がただ一脚だけ残っていて、それは8年前なくなった兄の椅子の、すぐとなりに置かれていた。追悼の宴が進み、ついに老給仕が呼ばれた。給仕はすでに耄碌していて、弟のスタニスラスに、かれの亡父の名で呼びかけたのだ。その声は食堂内に、ある複雑な効果を引き起こした。弟のスタにスラスは、亡父の名で呼ばれると席を立ち、覚束ない足取りで…いやいや、結末を云うのは控えよう。これは未読の読者が一人でもいる限り、何としても最低のマナーであろうから。

 もちろん、集中のシュニッツラー「アンドレアス・タアマイエルが遺書」も捨てがたい作品の一つだ。西欧人の遺書が、こともあろうに、候文で読めるなんて、これが読書人の眼福でなくて何であろうか。   ー 終り ー

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やさしい家族思いの鴎外

文学的な、まともな議論はプロに任せ、素人は素人なりの鑑賞の仕方があると思う。

 そこで、あっしなど鴎外に近づくのにまず、かれの人となりから迫ってみたいと思うのだが、いかがであろうか。

 異論のある方は、軍服姿の鴎外もうちへ帰れば、シュガーパパであったとことを思い出して頂きたい。幼い子供を呼ぶときは、誰しもその家庭独特の愛称をつかうものだが、鴎外も例外ではなかった。一番さきに生まれた茉莉は余程かわいかったと見え、戦地から妻しげへの手紙にも毎日のように出てくる。いい加減にパッと開けたところにも「茉莉が人形を持てあそぶようになったそうだね。さぞかわゆい事だろう。」

 「茉莉の気管支炎はその後どうだね。」また何日かおいて「茉莉の写真はいたまずにとどいた。大そう髪が長くなってしっかりした子になったねえ。」

 妻のしげにも、文末に、ふつうは、しげ子殿。だが、ふざけて、遠妻殿、やんちゃ殿、やんちゃのしげ子殿、しげ子殿御許に、しげちゃん、森シゲ子様、茂子様、などといろいろに書くことがあった。呼びかけも、お前さん、など、あの厳しいヒゲの顔からはとても想像しにくい優しさがあふれている。

 子供にはみな、仇名をつけて可愛がった。長女の茉莉はとくに可愛かったとみえ、おまり、次女杏奴はアンヌコ、末っ子の類は、ポンチコ。

 類は姉たちと違って、一時熱を上げた画業も、心機一転開店した書店も、なにをやっても大輪の花を咲かせることはなかったが、父鴎外は子供の類が、膝に上がったりすると、ポンチコヤ、パッパコポンチコヤなどと云っては、よく遊んでくれたという。

 美人だった妻しげの方も、手紙の中で、あの髪型も「お前さんが結うと立派だからおかしい。どうしても別品は得なものだよ。」と持ち上げている。先妻の子、於莵も、父から親しくドイツ語の『通信教育』を受けていたことを、同氏の著書(前掲書)から知った。

 なぜこのようなことをくだくだしく書いたかと云うと、例の「舞姫」である。あれが発表されるや、忽ち軍隊や文壇を初め世間一般からも相ついで非難の矢を受けた。ひどい男だ、と酷評された。しかし、鴎外その人は、実は上に書いたように、人間味溢れる人物だったのである。それが云いたかったのである。さらにいえば、鴎外一人悪かったのではなく、その時代が悪かったのである。

 ただ、かれの命名には賛成できない。茉莉(マリ)、しかり、杏奴(アンヌ)、しかり、類(ルイ)、しかり、生まれてすぐ死んだ子も不律(フリッツ)、さらに先妻の子にまで於莵(オットー)である。

 甚だしきは、於莵の子に真章(マクス)、茉莉の子に爵(ジャック)、など孫にまであちら風の命名をしている。日本男子や大和なでしこになぜ、バタ臭い名前をつける要があるのか。鴎外びいきのあっしにも、これだけは許せない。と息巻いてもみても詮のない話ではあるが…。(-_-;)

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『鴎外山脈』トレッキング

 鴎外山脈は思ったより雄大で、暫くは麓から眺めるほかないようだ。さいきん鴎外の読書を怠っていたが、また再開することにした。

 ところでちょっと面白いことに気づいたが、鴎外の子供の二人までが、出版社や大新聞の横暴に腹を立てている。

 ひとつは、志けの末子、類で、かれの著書「鴎外の子供たち」の中で、I書店の編集者に原稿の中に、8歳年上の姉、茉莉を中傷する箇所があったとかで、かなりの干渉をうけたことを書いている。

 しまいには類の前にI社の重役がでてきて、話し合いの席でこう云ったという。…そんなことを言うなら、(うちじゃあなたの原稿を)ぜったいに載せない。…他(の書店)から出してみろっ。ぶっつぶしてやる!と。しかも、それが他の部屋まで聞こえるくらいの大声だった、と。こうなると、まさに恫喝である。

 しまいにはこうも云ったそうである。「鴎外が偉いんで、君が偉いんじゃない。いばるな」これにもただ驚くばかりである。この調子だから、同社は潰れるどころかますます繁栄を謳歌しているが、これに何のフシギもない。

 結局、類は紋題の50枚をI社ではなく、講談社の『群像』に載せることにしたようだ。

 もうひとりは、鴎外の先妻登志子の子、於莵で、彼は類の筆(前掲書)によると「於莵とは解剖学の先生で、東邦大学の医学部教授である。」この於莵は自著「解剖台に凭りて」の中で、こう書いている。

 あるとき彼がY新聞の依頼で「老の話」という科学随筆を書いた。当初の考えでは原稿を二回に分けて書くつもりだったようである。その一回目に、老いは誰にでも来るが、昔は世界中で、老人は役立たずだから殺してしまうのが普通であった。ひどいヤツはその肉を食らって飢えを凌いだ。少し時代が進んでも、ひとは老人を山へ捨てた。*

 二回目では、文明が進むに連れて次第に敬老の習俗が普及していった、と書くつもりだったそうだ。ところが、Y新聞は、第一回目が、ぜんぜん科学的でないという理由でこれを中断してしまった。於莵は「一定の腹案の下に述べた途中で一言の跡始末を付加する事なく(完)とせられたのはラヂオの講演の最中スイッチを切られた如く、甚不本意である」などと憤慨している。もちろん、そのつづきをこの昭和書房刊の「解剖台…」の中で、思うさま書きまくっている。

 この幻の第二回には、いい話が出てくる。この本は滅多にお目にかかれるような本ではないと思うので、この機会にちょっと紹介することにした。
 
 スパルタといえば、ギリシャのペロポネソス半島に生まれ、スパルタ教育という言葉を後世に残した有名な都市国家である。


 あるとき、ギリシャのアテネに、スパルタの使者がやってきた。歓迎のアテネ市民の中に遅く到着のため、席が見つからず、うろうろしている老人があった。老人の困っている顔が面白かったのか、アテネ市民はいっせいに大笑いをした。スパルタからの使者はそれを見ると直ちに席を立って、老人に一礼し、その老人に手を貸し、自分の席の隣へ誘導したと言う。

 そこで笑った市民達は初めて、自分たちの行動を反省し、大いに恥じ入ったということだ。

* 西洋では、姥捨て山ならぬ、姥捨て海、姥捨て川がおおく行なわれたという。

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鴎外山脈に挑む~2

 この項に対し、TMさんから、あたたかいレスポンスを頂きました。本当に有難うございます。

> おはよう御座います。「鴎外山脈」へ挑戦されるよし、海外旅行の次は日本文学、それも鴎外ですか。

 鴎外は前から狙っていたんですが、なにしろ気が多いので、すぐ他へ興味が移ってしまい、いつも後回し。今でも、ほんとうは後回しの部に入っているんですが、公に読書宣言でもしない限りますます遠のいて行く気がして…、あえて宣言だけでもと思い…。(-_-;)

> 確かに厖大な作品を全部読み切るのは・・・・私の場合も古典中心に読みたい本が山積しているのですが肝心の体力特に視力の衰えは何ともしがたく、結局気が向いた時にページをめくるのがやっと。

眼の衰えでは人後に落ちません。すぐ眼が疲れて眠くなり、困っています。(-_-;)これでは麓へ着くのも何時になることやら。

> 体力、気力と相談されながら少しずつ「鴎外山脈」を踏破されますよう・・・何はさておき今回我々後進を大いに刺激していただいたことにお礼申し上げます。

 踏破はたぶんムリでしょうね。ご存じのように、かれの文章には文語体が多く、というより、和漢洋の混合であるため非常に読みづらく、一向にはかどりません。言い回しも現在使われていないものが頻出します。

 途中で挫折しないようにするためには、後期の口語体あたりから読み進めるのも一法か、と。またそれとは別に、鴎外を理解する為には、まず間接的に、かれにゆかりの人物に接近し、そのあたりから切り崩して行くのもいいかなと、最近は思い始めました。

 まあ、何事も長続きしたためしのない紋爺のたわ言ゆえ、深くお考えにはならぬよう。そのうち、鴎外とは縁もゆかりもない方角へ向かって走り出しているかもしれません。(-_-;)

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鴎外山脈に挑む

チャレンジなんと云う言葉は今時の若者に受けるらしく、朝のテレビなどにも盛んに出てくる。ひとことにチャレンジというが、後期高齢に達したあっしには、そう生易しいものではない。

 よく漱石と鴎外を日本の文豪の代表格になぞらることがあるらしいが、最近あっしは、漱石より鴎外にひかれ、鴎外のものをすこし読んでみたいと思っている。しかし、鴎外の作品もケッコウ多いので読み切れるかどうか。もし全部読み切れなければ、その場合は次回生まれて来たときの楽しみに取っておこうかと思う。なにも、焦ることはないのだ。

 顔だけ見る限りでは、いかにも偉そうで、近寄りがたいが、彼にもあっしら平凡な人間同様の悩みがあったらしい。斉藤美奈子のように好きな女を妊娠させておいて、最後まで面倒を見なかった超悪男の代名詞の一言で括るには、ちょっとムリなようだ。

 あっしはいわゆるミーハーなので、作品より人物の方へ先に目が行ってしまうが、アプローチの方法としては、あっしのばやいは、これしかない。

 でないと、途中挫折は眼に見えている。なりふりは構わず、兎に角1日でも余計にこの『チャレンジ』を続けてみたいものだ。

 むかし、子規の多彩な友人を表すのに、『子規山脈』と云う言葉を本のタイトルにした人がいた。あっしの場合は、相手は一人でも世界的な高山である鴎外は、鴎外山脈と名づけたい。まず山麓へいたり、そこから天候の具合などを考えながら、無理をせず、体調も視野に入れながら一歩一歩登ってみたいと思っている。しかし、生まれついての三日坊主、麓へ着くまでに気が変ってしまう可能性はかなり高い。(-_-;)

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オランダ王国首相に名誉博士号~2

 オハヨゴザイマスで始まるバルケネンデ首相の演説は、慶応の創始者福沢諭吉が流暢なオランダ語をあやつり、1862年にはオランダに1ヶ月以上も滞在したことを挙げ、不思議な縁を感じます、などと聴衆をひきつける、たくみな話ぶりで、話を進めていたように思います。

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オランダ王国首相に名誉博士号

慶応大学では、日蘭通商400年、大学開学150年を記念し、来日中のヤン。ピーター・バルケネンデ首相に対し名誉博士号を授与することに決め、きょう朝9時40分から授与式、並びに講演会が行なわれた模様。首相は、スピーチで、現下の国際的経済危機に際し、世界は更なる協調を強めていく必要があることなどを力説したらしい。
                                                         (10月27日記)

 http://www.volkskrant.nl/binnenland/article1308294.ece/Eredoctoraat_voor_Balkenende_in_Japan

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横浜山手散策

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 先日、仲間と山手方面を散策した。ところで、みなさん、

 コープランドと云う名をご存じだろうか?日本のビールの歴史に欠かすことの出来ない人物で、説明板にもあるように明治の初めに日本初の国産ビールをここ山手で創った。

 これが後にキリンビール(現在は生麦に移転)に発展するわけだ。この場所(山手10番館)から徒歩5分くらいのところに、キリン公園と云うのがあり、そこに醸造工場があったらしい。今、そのあたりはビヤザケ通りと呼ばれている。

 ここには、かれの営むビア・ガーデンがあり、これも日本初となった。そのウィリアム・コープランドの墓は、外人墓地にあるようだ。

 日本人による最初の英和辞典などでは、まだオランダ語のくせが抜けきれなかったのか、beerの発音が、ベールとなっていたそうな。

 トリビア知識になるが、オランダ語では、同じ母音が続くときは、伸ばす音になる。なお、オランダ語でのbeerは、beerでなく、bierである。

 当時はイギリス風とドイツ風の2種のビールが売られていたようだが、すでに明治の25年頃から、日本人の趣向は、ドイツ風へ加速度的に傾斜して行った模様。 イギリス風独特の苦味が嫌われたのかも。 

    参考:キリンビール編「ビールと日本人 明治・大正・昭和ビール普及史」

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