鴎外山脈は思ったより雄大で、暫くは麓から眺めるほかないようだ。さいきん鴎外の読書を怠っていたが、また再開することにした。
ところでちょっと面白いことに気づいたが、鴎外の子供の二人までが、出版社や大新聞の横暴に腹を立てている。
ひとつは、志けの末子、類で、かれの著書「鴎外の子供たち」の中で、I書店の編集者に原稿の中に、8歳年上の姉、茉莉を中傷する箇所があったとかで、かなりの干渉をうけたことを書いている。
しまいには類の前にI社の重役がでてきて、話し合いの席でこう云ったという。…そんなことを言うなら、(うちじゃあなたの原稿を)ぜったいに載せない。…他(の書店)から出してみろっ。ぶっつぶしてやる!と。しかも、それが他の部屋まで聞こえるくらいの大声だった、と。こうなると、まさに恫喝である。
しまいにはこうも云ったそうである。「鴎外が偉いんで、君が偉いんじゃない。いばるな」これにもただ驚くばかりである。この調子だから、同社は潰れるどころかますます繁栄を謳歌しているが、これに何のフシギもない。
結局、類は紋題の50枚をI社ではなく、講談社の『群像』に載せることにしたようだ。
もうひとりは、鴎外の先妻登志子の子、於莵で、彼は類の筆(前掲書)によると「於莵とは解剖学の先生で、東邦大学の医学部教授である。」この於莵は自著「解剖台に凭りて」の中で、こう書いている。
あるとき彼がY新聞の依頼で「老の話」という科学随筆を書いた。当初の考えでは原稿を二回に分けて書くつもりだったようである。その一回目に、老いは誰にでも来るが、昔は世界中で、老人は役立たずだから殺してしまうのが普通であった。ひどいヤツはその肉を食らって飢えを凌いだ。少し時代が進んでも、ひとは老人を山へ捨てた。*
二回目では、文明が進むに連れて次第に敬老の習俗が普及していった、と書くつもりだったそうだ。ところが、Y新聞は、第一回目が、ぜんぜん科学的でないという理由でこれを中断してしまった。於莵は「一定の腹案の下に述べた途中で一言の跡始末を付加する事なく(完)とせられたのはラヂオの講演の最中スイッチを切られた如く、甚不本意である」などと憤慨している。もちろん、そのつづきをこの昭和書房刊の「解剖台…」の中で、思うさま書きまくっている。
この幻の第二回には、いい話が出てくる。この本は滅多にお目にかかれるような本ではないと思うので、この機会にちょっと紹介することにした。
スパルタといえば、ギリシャのペロポネソス半島に生まれ、スパルタ教育という言葉を後世に残した有名な都市国家である。
あるとき、ギリシャのアテネに、スパルタの使者がやってきた。歓迎のアテネ市民の中に遅く到着のため、席が見つからず、うろうろしている老人があった。老人の困っている顔が面白かったのか、アテネ市民はいっせいに大笑いをした。スパルタからの使者はそれを見ると直ちに席を立って、老人に一礼し、その老人に手を貸し、自分の席の隣へ誘導したと言う。
そこで笑った市民達は初めて、自分たちの行動を反省し、大いに恥じ入ったということだ。
* 西洋では、姥捨て山ならぬ、姥捨て海、姥捨て川がおおく行なわれたという。