リーマン・ブラザーズ
むかしは何たって、川田晴久とダイナブラザース。いまは破綻したリーマンブラザーズが有名。地球の上に夜が来る、その裏側も夜だろう。世界同時不況、な~んちゃって。
でもブラザースは、ダイナだけやあらへんで。とにかく有名だったんは、メンソレータムの近江兄弟商会(社)、これも近江だけやのうて、久光製薬はんも、もともとは、久光兄弟社、そのほかにも、児玉兄弟商会たらいうのんもあったそうな。〇〇姉妹商会と云うのはしかし、あんまり聞きまへんなぁ。これは一体なぜなんでしょうなぁ。たぶん、会社始めて、幾らもたたん内に、もう終いや、てなことになっても、困るからやないやろか。いやいや、わし、ほんまは、よう知らんのやで。(-_-;)
ねじれた世の中の、ねじれた世界に生きる~2
ここまで書いて来て、展示室のそとに、エッシャーのお父さんのことを書いたパネルのあったのを思い出して、確認のためまた美術館へ出かけました。そこでは彼は明治政府の『お雇い外国人』のひとりとして、括られていました。
エッシャーのお父さん、ジョージ・アーノルド・エッシャーは、説明によると、オランダ王立アカデミー(現デルフト工科大学)で水力工学を専攻し、水政省へ入省したというからまぁ、当時のエリートだったんでしょうな。30歳の時来日、5年間日本で暮らしたよし。帰国後は水政省に復帰し、退職後は国から獅子十字章を授与されていますので、お国でもきっと有名なお方なんでしょうな。
さて、話を息子の版画作品に戻すと、彼自身はイタリアや、とくにスペインのアルハンブラ宮殿のモザイクからインスピレーションを得たと云っていますが、日本の浮世絵の影響もかなり大きいと思います。それは父エッシャーが、帰国にあたって、日本の浮世絵その他を、お土産として、かなり大量に持ち帰ったことでわかります。
>デ・レイケが60歳の時、日本を離れる。河川工事に関する相当の業績を残した。
山県有朋は彼の誠実さと正直さを高く評価し
彼に日本政府は5万円(現在の金なら4億円相当)の退職金を贈ったといわれる。
おなじお雇いのデ・レイケは滞日期間が長かったせいもありますが、帰国時日本政府から今のお金にして4億円の退職金を貰ったといいますが、これはスゴイ。もちろん、明治政府の外国人へのこうした優遇振りには世間の反発も強く、手厳しい批判も、ケッコウ多かったらしいです。
展示資料によれば、ゲ.ア.エッセル(エッシャーのこと)の淀川改修工事での雇用期間は明治5年6月9日から11月6日で、報酬は「御雇蘭人月給旅費表」によると、一等工師なので、月給が四百五十圓、日当並旅費が、五圓五十銭、居家料壱圓二十五銭。(建設省淀川資料館)
☆ 写真は、細長い方が、通常の入場券、正方形のが、敬老の日限定高齢者用入場券です。
ねじれた世の中の、ねじれた世界に生きる
ねじれ国会というより、毎日のニュースをみていると、世の中全体がねじれているような気がしてくる。紋次郎は、もともと心がねじれているので、彼にとってはいまが一番住みやすい世の中なのかもしれぬ。(-_-;)美しい日本の私、ではないが、ねじれた日本の、ねじれた世の中の、ねじれたわたし。
ここまで読んで来ると、なにか紋次郎が、ひとりで悦に入っている様に見えるかも知れないが、そんなわけでもない。先日、わが町でオランダ生まれの版画家、エッシャー展が始まった。早速会場に出かけたことは、前にも書いたが、おとついの月曜にもまた同じ会場へ出かけたのら。
これは当日がちょうど敬老の日にあたり、老人(65歳以上)は無料で観られたからだ。受付で健保証を出すと、正四角形のチョッと洒落た、特別仕様の『敬老の日限定パスポート』に取り替えて呉れた。展示室の女性も、普段はマッタク口を利かないが、この日に限って「こちらの方からご覧になったほうが、およろしいですよ」などと親切に声を掛けてくれた。してみると、前回はあっしは、若者扱いだったわけか。(^_-)-☆
物覚えが悪いので一回くらい行ったのでは何も覚えておらず、意外と新鮮な感じだった。でも、中にはいざ作品の前に立ってみると、初恋の人ではないが、朧に記憶の底から浮かび上がってくるような作品も、一点やニ点はあった。ひとと云うのは、幾ら頑張っても、なにかしら他人の影響を受けるものだが、それを意外な人から受けるものだなぁとも感じた。兄さんが鉱物学者だった彼は、他の先輩画家からではなく、この兄さんから一番大きな影響を受けていたのだ。そういえば、鉱物の結晶体を思わせる作品もあった。また彼の影響を与えたのも、他の画家や美術マニアではなく、数学者が一番最初だったというのも異色だ。
メビウスの輪を取り入れたものも制作している。やはり紋次郎のように、どこかねじれた心根の人物だったのだろう。彼の好んで描く、ありえない空間は、畢竟『ねじれた空間』である。分からないながらも、このねじれが、すっかりお気に召した紋爺、自宅に帰ってからも興奮収まらず、早速愛機の壁紙を彼の作品で埋め尽くした。というと、ちと大げさだが、いまデスクトップはエッシャーの二作品が占領している。あっしは朝な夕なにこれを眺めて、生まれ着いてのねじれた心を失わない様に、日夜心がけている。
ゴキブリ退治コンクール~3
今でも長野、山梨では、蜂の子やイナゴ、蚕の蛹などはよく食べているようでですね。あっしも、若い頃は、神田駅のガード下の安い飲み屋で、イナゴなどは、よく食べました。
新聞紙上で、新興国の台頭や、燃料紋題で近い将来、地球上に大飢饉が訪れると予測されています。そのまえに、あっしらはゴキちゃんなどを食べる練習を積む必要があるかも。諺に云う『備えあれば憂いなし』と。
陸上自衛隊の、サバイバル・レシピには今のところ、入っていないようですが、昆虫料理研究会では、例会を開き、セミの幼虫、コオロギのから揚げなどの料理法を一般に指導しているとか。
また、興味のある方には「楽しい昆虫料理」内山昭一著、ビジネス社刊、定価1680円も用意されています。
今は禁止だそうですが、体長7センチもある、マダガスカルヒッシングコックローチの早食い競争も、以前は開かれていたそうです。なんでも、ケン・エドワードと云う男が、1分間に36匹平らげたという、凄まじいワールド・レコードが残っている由。
まだほかにも、八坂書房刊の「虫の味」という、見るからに味のありそうな本も出版されているようです。この本で大型昆虫の味を覚え、マダガスカルなんとやらに挑戦してみようという勇敢な御仁は御座らんか?
ゴキブリ退治コンクール~2
お退屈しのぎに、ごキちゃんのことを、すこうしばかり。まず、ゴキブリの方言集です。 旅行先の山梨県では、ゴキちゃんのことをボッカブリ、三重でヘハ、長崎でトックー、沖縄の宮古島でクームヤってんですって。
チョッと調べてみたら、イタリアでも州ごとに言い方(方言、お国言葉)が違うそうです。首都ローマのある、ラツィオ州ではバカロッツォ、リヴィエラ海岸のあるリグーリアではバグン、ナポリなんかがあるカンパンニア州では、スカッラフォーネ、州都トリノでオリンピックのあったピエモンテ州では、バボイア、三角形の島シチーリア州ではパッパッパーネと云うそうです。
それから「こがね虫は金持ちだ」の歌を知ってますか?茨城ではチャバネゴキブリをこがね虫というんですって。だから、ゴキブリを捕まえても、殺さなければ、世界的な大富豪になれるかも知れまへんで。(^_-)-☆
「こがね虫」の歌も今では大分古いけど、お話で一番古いのはやはりイソップで『鷲とゴキブリ』なんだって。また、音楽では、そのものズバリ『クカラッチャ』というのがあります。クカラッチャは、スペイン語でゴキちゃんのことです。
ゴキブリ退治コンクール
あっしは、このところ3日ばかり、命の洗濯のため、気の合った仲間と甲州方面へ小旅行をしてきた。
夕食も終わり、部屋に戻ったあと、みんなでいろいろ駄弁っていて、そろそろ夜の10時半になろうかと云う頃、たまたま床に目をやったあっしが、巨大なゴキブリを発見。大型活字本ではないが、これなら相当の目悪でも、絶対気が付くというほどの大物であった。
たちまちベッドルームは修羅の巷と化し、女だてらにスリッパ片手に追い回すもの、専用のエアゾルを夢中で押し続ける者、スリッパで踏んづけようとするもの。みなの奮闘のお陰で、たちまち4匹殲滅の大戦果、軍艦マーチならぬ凱歌が夜のしじまを破って高々と上がった。しかし、今度は隣の部屋でも多数のゴキブリを発見、ここでも一同の奮闘あって、前にも劣らぬ大戦果が。
しかし、敵も然る者、親のかたき、彼氏のかたき、愛人のかたきというわけか、ゴキブリの援軍が、今度はその隣の部屋にもぞくぞくと現われた。またまた迎え撃つ、わが軍の猛攻にあって、敵は忽ち白旗を揚げ降参するが、わが軍はとことん、攻撃の手を緩めない。ここでもまたまた大戦果。ついにさしものゴキブリ軍もなりを潜め、日付の変わる頃、わが軍はやっと安眠を取ることができたのである。
いままで、旅館やホテルで、夜分このように熾烈なる、戦闘を行ったことは一度もなく、マッタク初めての経験であった。
終って、だれがゴキブリを一番取ったか、沢山やっつけたかを公平に調査し、後日授賞することに決めた。元来こういう仕事は、男の仕事だが、結果を見て、女性軍も最近はなかなかやる紋だと、寒心、おっとまつがえた、おおいに「感心」した次第。
ちなみにこの旅館、アリもいて、都心などに比べ、ケッコウ自然が溢れている。しかも、そのアリもかなりの大型だ。寝るときも、明かりを消す前、あっしの枕のそばを、悠々と歩いていた。それも特大のヤツが。
非食用米事件に思う
非食用米という言葉を初めて聞きました。実はあっしは、20代の頃、3年ほど港湾関係の仕事に携わっていました。運送業ですから会社の扱う商品はアメリカから輸入した古ストッキング(ウエスに使う)、輸出用缶詰を始め、多岐にわたっていました。その中に、外米もありました。
今回のは中国からの輸入米だそうですが、あっしの会社のはすべて、タイ、ビルマ(当時)からでした。それらは黒い船体の、大きな船に積まれ、東京港や、横浜港に到着しました。輸入された米の処理については、東京の場合、予め日本橋の瑞穂會舘という小さなビルに、総合商社、倉庫会社、港湾業者などが集まって、協議をすることになっていました。
輸入総量数千トンというのを、机上に置かれた本船のハッチ図を前に、隅田川の沿岸に点在する三〇倉庫、渋〇倉庫、〇井倉庫といった、大手倉庫に何トン、何トンと振り分けるのでした。
そうして、イザ本船が沖にはいると、そこへ港湾業者や、検数業者が乗り込み本船から、クレーンで艀(一隻100トンから150トン積み)に積みとります。
受け入れの倉庫では、農林省(当時)の小役人が待機していて、サシという道具をガニー・バッグ(麻袋)の中に突っ込んで検査をします。外米は湿気の多い東シナ海を通ってきますので、よく「濡れ」が生じます。濡れるとカビが発生し、場合によっては隣の袋へも伝染するので、それらを刎ねます。事故米は検査表に、細大漏らさず記入され、監督官庁に逐一報告され、廃棄されますので、何ら紋題は起こらなかったように思います。
あっしの見たところ、あの頃は農林省の小役人も、輸入業者も、倉庫業者も、港湾業者も、それぞれ自分の仕事をキッチリやっていたので、輸入米のことでこんなことが起こるなんて、あっしにはとても考えられません。
「もんじろう」の実力
さっきGoogleを見たら、人気急上昇ワードの中に『もんじろう』というのがあった。何だろうと好奇心旺盛の紋次郎、さっそく覗いてみたら、文章を武士語とやらに変換してくれるソフトだそうだ。で、早速あっしの「ポストを開けてみたら」という文章で試してみた。その実力は以下のとおりであった。最初のは原文、その次は変換後の、哀れな姿である。(-_-;)
(原文)
けさ郵便ポストを開けてみたら、葉書が一枚入っていた。さっそく見てみると、落語会の案内状だった。
最初のは9月24日、出演者は、二つ目がふたり、つぎのは10月22日で真打がふたり。今度は、木戸銭と云うところを読むと、両方ともおなじく、1000円だ。
あっしがつらつら、ま、つらつらでなくても、ふらふらでも、へらへらでもいいんだが、思うに、一方は二つ目二人で、もう一方は真打が二人で、料金が一緒と云うのはどうも解しかねる。
(変換後の文)
けさ書状集函を、開けてみたら、 葉書が一枚入とはゐたでござる。さっそく拝見してみると、 落語會の案内状でござった!
最初のは、長月弐肆日、 出演者は、、 二つ眼がふたり、 つぎのは、神無月弐十弐日で真打がふたり!今度は、、 木戸銭と云うとっこを、読むと、 両者ともおなじく、 一仟両だ。
あっ卯月らつら、 ま、 つらつらでござらぬても、 ふらふらとはいえ、 へらへらとはいえよかろうんなれど、 存ずるに、 一つ方は、二つ眼二輩で、 もう一つ方は、真打が二輩で、 代料が道連れと云うのは、いかがも解しかねる!
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読後、「もんじろう」の云うとおり、まったく、いかがも解しかねる文章だと思ったことである。
船マニア必見!
やっぱ見ない手はないでしょう。このほど覆面を脱いだ世界最大のプライベット・ヨット。いまイタリアはラヴェンナ港に碇泊中。総トン43000トン、キャビン数165。250人収容可、とのこと。船名もまた豪華「問われて名乗るもおこがましいが、The Worldといえばあっしのことだ」と、この船が大見得を切ったかどうかは保証はできませんが…。
いずれ持ち主はアラブの大富豪か、ロシアの成金か。
http://sitesearch.corriere.it/gallery/Cronache/vuoto.shtml?2008/08_Agosto/ravenna/1&1
バベルの塔の再建は何時?(最終回)
前回までは、ミクロ的な紋題点をおもに取り上げたが、今回は最近読んだ本の紹介である。この本の扱ってるテーマや舞台が一般の小説とたいへん異なっている。まず著者はディエゴ・マラーニ、タイトルは『通訳』。沢山の言葉の狭間で、捻じ曲げられ押しつぶされる通訳者および「わたし」の破滅するまでの、克明な記録である。
同時通訳者という言葉がある。むかしは、元祖といわれたアポロ月面着陸実況担当の西山千、それにサイマルインターナショナルの村松増美、女では鳥飼久美子、それから才媛の名がぴったしで、存在感抜群の故人、米原万里や、最近メキメキ売り出し中の、田丸公美子などの名がつぎつぎ浮かぶ。
これらの人たちはたぶんバイリンガルか、トリリンガルだろう。だが、ここにいう通訳氏は16ヶ国語をマスターしたマルチリンガルなのだ。題名もただ『通訳と』といった具合に、愛想も素っ気もないのだが、そればかりか文体も非常に重苦しいと言うかねちねちしたものなので、全部で260ページを読み切るのは、あっしにとっては、かなりの苦行だった。
この本の著者自身が、国際機関の通訳者と云う肩書きにもチョッと驚かされるが、沢山いるご同輩のうちでも、小説を書くものとなるとこれは滅多にいないはずだ。またざっと読んだだけで、あらすじを云々するのも気が引けるが、ここにスイスのジュネーヴにあるEUの機関で、局長の地位にまで上り詰めた、フェリックス・ベラミーと云う男がある。
職場では通訳者の管理をしていて、妻イレーネとは最近あまりうまくいっていないらしい。彼の比較的平穏な日常に、突然ある事件がおこる。職場の通訳者が、上司から不適任の烙印を押され職務停止になるという。さいきん仕事中に、訳の分からない(地球上に存在しないーこれが祖語、アダムやエヴァの話した言葉なのだろうか))言葉を呟き、異常な行動がにわかに増え、業務に支障が起きているという。
ベラミーは最初逡巡するが、結局承認のサインをしてしまう。通訳はこの決定を覆そうと、あらゆる手段を使ってかれに執拗に付きまとうが、結局は職を失う。その後、ベラミー自身にも、同じような症状が現れ、解雇された通訳同様、訳の分からぬ言葉を口走るようになり、人間関係も当然うまくいかず、最愛の妻にも逃げられる。
同病の通訳を追ううち、家出した妻がこの通訳氏とねんごろな関係にあったことを知り、二重のショックを受けるというおまけまで付く。ベラミー自身も解雇されるが、何としてもこの伝染性の奇病の治療をと決意し、ミュンヘンの医師バーヌンク博士の元を訪れる。
通訳氏の最初の移転先には、なぞの地名が残されていた。それは、どうやら、通訳氏の遍歴先を暗示しているようだった。のちにベラミーはこの地名表を頼りに、通訳氏の足跡を追うことになる。
さらに物語りはミステリー染みてくる。ベラミーは、奇妙な療法の行われているバーヌンク博士の言語クリニックで、偶然、通訳氏と交渉のあったルーマニア人の女と出会い、そこで聞いた話がきっかけで、中断していた通訳氏の追跡行を再開する。
通訳氏の残した地名表では、女の住んでいたコンスタンツァの次は、ウクライナのオデッサであった。彼は急に通訳氏に会いたくなり、博士に申し出た。突然の退所希望に博士は反対するが、ベラミーは初志を貫く。通訳氏探索の旅はコスタンツァからウクライナのオデッサへ移る。このところの進行は、日本の金曜ミステリーの展開にいくらか似ているかもしれない。
停滞気味の物語は俄かに勢いづき、読者であるあっしも、やっと人心地がつく。
オデッサでは通訳氏の首切りを断行したシュタウバー氏を発見するが、彼はベラミーの目前で、何者かの手によって殺害される。ベラミーは運悪く現場に居たので、身辺に危険が迫り、怪しげなルートで国外に脱走しようとするが、悪者のお陰で臓器密売人に売られ、今一歩であの世行きの危険に晒される。
しかし、さすが物語の大事な主人公だけあって、そう簡単には死なせて呉れない。窮地を脱したベラミーは、段々悪人に変身。誘拐者を殺害し、車を奪って逃避行をつづけるが、これが何と強盗をしながらの道中である。
ついにお尋ね者となり、現地の新聞に、でかでかと写真が載るし、ラジオでも報道される。途中ルーマニア人の女通訳マグダ・コボリを拾い、今度は二人組強盗で名を売る。最後にマグダの方は警察に捕まるが、しぶといベラミーは助かる。
この辺から益々アメリカの活劇ものの様相を呈し、無蓋貨車に忍び込んで国境越えをする。ベオグラード(セルビア)経由で、博士のクリニックへ。ところが、不在の間に様変わり。博士、看護師始め、むかしの医療関係者がどこにもいない。その上、患者の記録さえ処分されてか、見つからない。
そのうち、追いはぎに身ぐるみはがされ、一転浮浪者の身の上に。そこへ都合よくクラウス・バークという大富豪が現れる。大富豪は近親者も及ばぬ手厚いもてなしで彼の身柄を引き取ってくれた。さらに身の上話を聞くと感激して、ベラミーの追跡行を全面的にバックアップしてやろうと申し出た。
二人はミュンヘン、ベルリン経由で、リトアニアのビリュニス、ついでクライペダ港へ向かう。ここでミルコ・ストロヤンと名を変えた通訳氏の居所を突き止める。だがその次に起こった事件も奇怪な事件だった。今度は大富豪が海岸で、イッカクの牙に串裂きにされた惨めな姿で発見されたのだ。
宿を引き払い、出航寸前の船に飛び乗ったベラミーは、甲板に出たとき、今度は乗船客の落水現場に遭遇する。引き上げられた死体はミルコ・ストロヤンの旅券を持っていたが、明らかにミュンヘンのバーヌンク博士その人だった。下船後エストニアのタリンを歩く。ここでベラミーは、ついに捜し求めた彼に会うことができたのだ!通訳氏は遊園地の中のイルカ水族館に居たのだ。4頭のイルカに囲まれ幸せそうだった。
あっしは、原始言語はアフリカ語と見当をつけていたが、完全に予想を裏切られた。原初の言葉は、人間が海棲だったときの言葉、つまり「水棲言語」だったのだ。通訳氏と再会したベラミーの、4年後の姿をみなさんは想像できるだろうか。通訳氏同様、この水族館で、イルカの管理に当たっているそうだ。通訳の管理からイルカの管理、というわけだ。
だが彼の場合は通訳氏とは違って、不幸はまだまだ続いている。しかし、あまりに煩雑になるのでそこは省略したい。「暗くとげのあるエストニア語」を苦労して覚えたいまは、ここで子供や旅行者相手のガイドを勤める日常。それが最高とは思えないが、通訳氏とはフシギな腐れ縁で、再会以来ますます離れがたく、ふたりの絆は以前に増して強まっている。
著者ディエゴ・マラーニのもう一つの顔。それはユーロパントと呼ばれる人工言語の発明者だ。もちろん、かれはそれを究極の言語とまでは云っていない。ザメンホフ信奉者などからの手厳しい批判にかれは、これは学問的な性格のものではなく、みんなで愉しめるゲームのようなものにすぎないと説明している。
この本の翻訳者が、巻末に上げている、ユーロパントの例文を見て、あっしは咄嗟に小沢征爾の顔を思い浮かべた。小沢語。音楽音痴で、上手には書けないが「あんたそこのところ、もう少しピアーノに、そうジュエしてくれる?あっそれから、ヴァイオリンの人、それでもグッドだけど、できればビッテ早くして。そうファースターね。ヴィオラの人も、タンビエンだよね。じゃ、アッレス、行きますよ、トゥッティ」とまぁ、こういった具合だそうだ。
この本にある例文は、Der only tongue dat man can speake sin estudy:Europanto.Om Europanto to apeakare,tu basta mixare alles wat tu know in extranges linguas.
そういえば、これはあっしの会話にも少し似ている。イタリア語の会話に、いつの間にか、ドイツ語やフランス語、スペイン語が混じってしまう。
あるひとは、著者は事新しく云うが、これは単なるピジンだと、貶していた。だが、彼の場合、スゴイのは発明しただけでなくフランスでこの人工言語による「世界初のユーロパントによる」短編集まで出したそうだ。内容はユーモア・ミステリーだとか。
☆ 他の例(有名な主の祈り)を、座興までに下に記す。これはウィッキーのページにあったもの。
Notre Padre who est en la ciel,
may votre nombre est sanctificado.
Venga votre reino.
May votre voluntad est fatto,
comme en ciel, assim on la terre.
Da us notre pane de chaque giorno.
y pardonu notre deudas,
assim comment we pardonar notre deudoress.
y not induce us en tentasion,
mais free us del mauvais.
Amen
(完)
バベルの塔の再建は何時?(2)
翻訳家のざんげ話もまた面白い。たまたま「誤訳だらけの翻訳書」などという文字が眼に入るとすぐ目を皿のようにして色めきたつ。これは当方はマッタクの安全地帯にいるのだし、人のアラはとくべつ興味をそそるからである。もともと翻訳家だの通訳者などは、文化の橋渡しが仕事なので、聖職者と呼ぶべきだとあっしなどは常々思っている。しかし、あっしらのように、外国語と来たら中学生にも笑われそうな手合いとは違って、それを一生の仕事にしているその道の専門家が、間違うと言うので、あっしら素人はついついケチをつける側に加担したくもなる。
先日は光文社の新しい文庫で、ある訳者がご同業の、他の翻訳家に手ひどい攻撃を受けていた。なんでも最近の訳業に、数十箇所だかの誤訳があったというのだ。批判を受けた側の翻訳者は、そんなに云うんなら、ご自分でお訳しになったらどうでしょうと、開き直っていた。
ところで懺悔録の話だが、フランス文学の寺田透さんは、sabre刀をsable砂、terreur恐怖を erreurと間違えたよし。これはあきらかに単純ミスだ。前者はl とrの見間違い、後者はtの見落としだからだ。(しかし、後者はこの見落としによって、皮肉な結果に終った。というのは、間違えた方の単語がそのものずばり、『誤ち』という意味の単語だったからだ。)
また知識があり過ぎたための間違いというのも、広い世の中にはあるらしい。これはアメリカの話で、NYの某紙の文芸欄で、深沢七郎の『楢山節考』を紹介する際、節をタカシと読んだという。たぶん、Narayama TakasiーKouと云った具合にやったのだろう。これは、たまたま編集部に、日本文学にチョウ詳しいヒトがいて、つい長塚節(タカシ)と一緒にしてしまったのだろう。そう云われてみると、このNarayama Takasiも、なにか日本人(作家)の名前のようにも見えてくるからフシギだ。この話は、福原麟太郎氏の紹介による。
翻訳のなにが難しいか、これもヒトによってかなり違うらしい。世間がでなく、誤訳にうるさいので定評のある別宮貞徳氏は、固有名詞が苦手だというし、たくさんの訳書があって、本人でさえその数を正確に把握してないと云う田辺貞之助は、俗語がいちばん難しい、と。
さて話変わって次に、名訳というのはどういうのをいうか。これにも紋題があるようだ。詩人の萩原朔太郎がいうには、さる英語の達人が、芭蕉の有名な古池の句を訳した。
The ancient pond!/A frog plunged splash!
本人は外国人に褒められたとかで鼻高々だ。ところが朔太郎は、句の「や」という切字を!で済ましたことに大いに不満で、「や」という、俳諧では非常に豊富な内容を持った言葉を、単なるエクスクラメーション・マークなんぞで代用できるかと息巻いている。英語が出来ることと、俳諧の分かることはマッタク別の紋題だ、と。
また花の雲の句も、単にWhere is the bell from?では外国人は、花に飾られた葬列や甲高い音を立てる、あの西洋風の鐘をイメージしてしまう、と。結局朔太郎は翻訳不可能論者である。ただ、どうしても翻訳をするなら、鴎外のように『創作』をせよと。
氏は言う。『即興詩人』は鴎外自身の作った翻案なのだ。その故にこそ「名訳」なのだ。と。そう云われてみると、それもまた尤ものような気がしてくる。
言語学者で翻訳家の、千野栄一さんの話も考えさせられる。林芙美子の「下町」と云う短編をチェコ語に訳す事になった。チェコ人の翻訳者は、貧乏ゆえに足袋底を縫っているという箇所で、「足袋」を「シャツ」と訳した。千野さんがせめて靴下にしたらと助言すると、女史は靴下は縫うのでなく編むもの。そうすると、二つの語を変えなくてはならないと反論。では貧しさゆえに縫うものは何かと聞くと、それがまさにこのシャツなのだ、と。お国柄と言うか、文化の違いというか。
木下順二の「夕鶴」は、チェコ語訳では「白鷺」。なぜチェコにもいるはずの、鶴では不味いのかと聞くと、鶴と云う言葉はかの地では男性名詞。それでは「つう」の清楚な感じが出ない、と。いちいち尤もな、というか。ますます彼我の違いを痛感させられるというか。
それから前回、理解、誤解のことを書いたが、文化人類学、言語学専攻の西江雅之さんの話も、ここに書き留めておく価値があるように思う。それは言葉の上っ面だけでは、理解と言うことはムリだと云うこと。ここで読者にひとつ質問をしてみたい。
みなさんは友だちにあたる英語をご存じだろうか?あっしも知っていると思っていた。friend。正解である。だが同時に、大きな間違いとも云える。氏がアフリカのケニアにあったとき、宿のボーイがよく、You are my friend という。それを取り上げて同宿の米人学者が言う。あの男がアレを言いだしたら金の無心だ。気をつけろよ、と。西江さんは直接ボーイのジョザムに聞いたらしい。その時の回答は、友だちとは彼らの間では、腹のすいているとき食べさせてくれる者、と云う意味だそうである。
それを無下に断るような者は、友人の内に入らないと言う。文化の違いである。学者はジョザムのアレを聞くたびこう云ったそうである。Oh,no!I'm not your friend!これではアフリカで友だちを作るのは無理だろう。また宿のオーナーはインド人の菜食主義者である。米人学者はかれに、ステーキを食いに行こうと何度も誘うそうだ。インドでは云うまでもなく、牛は神聖である。
それからハムレットの話も面白い。ハムレットの母親は、父王の弟と不道徳な結婚をする。ところが、かの地ではこの母の行為、こういう形の結婚は、きわめて道徳的とみなされているそうだ。結論として、言葉の上っ面だけ見ても言葉の意味は分からない。
言葉の裏側にかくれているもの、文化であったり、風習であったり、考え方であったり、これが一番大切であり、ここに一番意を用いなくてはならないのだ、と。 (つづく)
バベルの塔の再建は何時?
キリスト教社会では当然のことながら、バベルの塔の存在感は大きい。絵に描かれ本に書かれて知らぬものはない。しかも現今では、その知名度は、キリスト教世界だけに留まらず、洋の東西を問わないといっても過言ではない。そんなわけで、国内外にバベルの名を冠した語学校がわんさかある。人類は最初は同じ言葉を話していたと聞くと、つぎには、それがどんな言葉だったんだろうというソボクな疑問が沸いてくる。人類の発生がもし、アフリカからだったとしたなら、それはアフリカの言葉に近いはずだ。もし原初の共通語の復権を目指すつもりなら、語学校で英独仏語などを教えるのは従ってなにか可笑しいような気がする。
それはさておき、言葉の現状を見ると、いまや世界中におよそ7000の言語が犇いているはずだ。中国だけでも普通話以外に広東語、上海語など幾多の言語が使われ、インドでも事情はおなじだそうだ。よく書店に行くと「〇〇ヶ国語習得法」といった表題の本が並んでいるが、これだけで、世界中を渡れるものかどうか甚だ疑問だ。どう見ても焼け石に水の感は拭えない。
またこういう手合いのことはどう考えたらいいのだろうか。手近かなところで、文庫にも入っているアーサー・ビナードやイアン・アーシーと云った人たち。ガイジンに、これだけ立派な日本語を書かれては、日本男児たるもの立つ瀬がない。前者はその詩集で、日本人でも滅多に取れるものではない中原中也賞を受けたし、他の著書では講談社のエッセイ賞をを勝ち取っている。
かれらがこう達者になると、あっしらも町中の小さな教室で、息子ぐらいの年恰好の先生を相手に、「グッドモーニング、ハウアーユー」などと、ドラ声を張り上げて勉強する気持ちがだんだん萎えてくる。日本語は世界一難しい言語だったんじゃないかなど、今更陰で呟いてみても始まらない。テレビに登場するガイジン連中も、日本語があまりに上手すぎるのである。ま、日本中の人がテレビに出られないのと同様に、珍しいから引っ張り出されるのだと割り切るより仕方があるまい。
言語はなによりもコミュニケーションの道具である。ところが、言葉は理解だけでなく、誤解をも仲介するようだ。外交関係でも、言葉の行き違いから戦争に突入した例は、数限りなくある。誤解から始まっても、不断の努力で理解に到達すればそれでいいはずだが、理解への道のりははるかに遠い。
誤解の例はしかし、笑いを誘い、人々の緊張を解く意味では潤滑油の働きをするともいえる。あっしなど、誤解による単語の誕生については、カンガルー、ユカタン(半島)などごく僅かしか知らなかったが、ロシア文学の沼野充義氏は、その方面の権威?らしく、かなりお詳しい。そのうち面白かったはフランス語のヴァジスタース(vasistas)と云う言葉だ。ドイツ語をおやりの方ならすぐピーンと来るはずだが、これは、ドイツ語の「これは何ですか?」(Was ist das?)というフレーズそのものだ。
西欧にまだ、明り取りの窓が普及していなかったころ、ドイツ人が(たぶん)それを指さしてこんな問いを発したらしい。それを聞いたフランス人が「ははあ、これはヴァジスタースというものなのか」と、NHKの出演者ではないが、ガッテンガッテンして、それがどうやら由緒正しいフランス語として定着したものらしい。たしかに手元のポケット辞典にも「開閉式小窓」などとして載っている。(つづく)
☆ トリビア知識。さいきん書店で見た画集の説明では、あの有名なブリューゲル作の「バベルの塔」は、かれがローマのコロッセオを観ているうちに、その着想が浮かんだのだ、と。なるほど、そういわれて見直すと、なるほどなるほど良く似ている。
『エッシャー展』を観て
永遠なる迷宮と副題の付いた『エッシャー展』を観て来ましたはじめは騙し絵と云うか、そんなもんだろうと高を括って気楽な気持ちで出かけたのですが、やはり西欧の作家のものだけあって、ケッコウ理屈っぽいものと知りました。世界的に多い点数を誇る長崎のハウステンボス美術館所蔵のものだけあって、ツーフロアにビッシリあり、大変に見ごたえがありました。総点数はたしか144点とあったように記憶しています。
エッシャーの魅せられたイタリアの風景ももちろん面白かったのですが、これらは写実的な表現です。やはり彼の真骨頂と云うべきは、いわゆる騙し絵の方で、私のお気に入りは二次元から三次元へ、三次元から再び二次元へ戻る「爬虫類」などの作品群です。建物の中から、戸外の建物を眺めている筈の自分が、いつの間にか、その建物の中に居る、確かにこれは迷宮と云うほかには、言い表しようがないのかもしれません。
彼の不思議な版画世界は、スペインのアルハンブラ宮殿のモザイクから、ヒントを得たそうですが、そう云われて見ると、成る程と頷けるところがあります。
なお、同展覧会は8月1日から9月23日まで、佐倉市立美術館で開催されています。
『自転車泥棒』の60年
(1) 名作といわれた『自転車泥棒』が公開されたのが1948年、今から丁度60年前である。第二次大戦直後の、心身ともに貧しかった時代だ。女房の働きで、長らく質屋に眠っていた自転車がやっと取り戻せた。そのお陰でビラ張りの仕事が転がり込んできた。その命から二番目に大事な自転車を、僅かのスキに盗まれてしまった。アントニオはその商売道具の自転車を息子とふたりで必死に捜し歩く。必死の捜索にもかかわらず自転車はついに見つからなかった。
思い余った主人公は、ついに人様の自転車に手をかける。あわや警察に突き出されそうになった時も、アントニオは不甲斐ないことに、息子のブルーノに救われる。自分では何とかしたいと思っても、如何せん、仕事の見つからない不景気の世の中。巷には失業者が満ち溢れている。これは何度観ても、あの終戦直後の辛かった時代を思い出させる、苦い後味の残る傑作だ。映画を監督したデ・シーカの腕並も大した紋だが、少年ブルーノの演技も随所に光っていた。
(2) 60年後の『自転車泥棒』はこんな具合だった。場所はローマからカナダのトロントに移っている。スロヴェニア出身の移民、イゴール・ケンクは49歳。この彼が世界一の自転車泥棒の栄誉を受けることになったという。(1)は創作だが、こちらはつい最近起こった事件、実話だ。スロヴェニアを食い詰めてやってきたトロントで、かれはバイシクル・クリニックという店を立ち上げた。
店に置いてある商品はすべて盗品で、その数なんと2865台だと。修理の終った自転車は、サイズ、メーカー別にきれいに分類してあった。自転車を持ってはいたが、それを販売しなかったのは、自分が危険を冒して手に入れたので、ある程度の愛着もあり、また石油の更なる値上がりを期待していた為もあるという。これから一儲けしようという矢先に、警察の手入れがあり、御用となって、あわれ夢破れた次第。
前者はたった一台の自転車の話だが、後者はおよそ3000台の自転車の話で、時代が違うとはいえ、違いが際立っている。
☆ちなみに映画の方の自転車は複数、三面記事のほうのは単数であった。思うにあの頃は盗られた方も、終いには盗る方に回り、泥棒を働かなければ生きられない、そんなハードな時代であったので、それを云いたいがためか。






