『ジャンニ・スキッキ』を初めて観る~4
ジャンニ・スキッキというのは、田舎ものだが、なかなか頭のいい、ずる賢い男でこれが劇中で大活躍をする。まず幕が開くと(実は一幕物だし、最初から開いていた)臨終の床が現れ、大富豪の(ブオーソ)ドナーティがベッドの上で死に掛かっている。この莫大な遺産をめぐって、集まった親戚の間に大騒動がおき、そこへ法律に詳しいスキッキが呼ばれる。
一同が取らぬ狸のなんとやらで、色々自分の取り分をあれこれ空想して楽しみにしているが、みな欲の皮が突っ張っているので、おたがいの主張が衝突してますます混乱状態になるばかりだ。知恵者、アイデアマンであるスキッキは、ここで自分の名案を披露する。つまり、(ブオーソの死んだことは召使も誰も知らないのだからまだ、ブオーソは死んでないことにし←口裏あわせ)自分が大富豪のブオーソと入れ替わり、服装まで取り替えて、そこで新しい遺言書をつくる、と。
ここで親戚一同みな、ふたたび期待に胸を膨らませる。医者は追い返され、直ちに公証人が呼ばれ、その前でスキッキは消え入りそうな声で遺言を口述する。ところが、肝心の遺産はすべて「最良の友、ジャンニ・スキッキにやる」と発言。ブオーソの従姉妹のツィータに至っては、公証人の費用まで払わせられる。しかし、このフィクサーのおかげで、愛し合っているリヌッチオとジャンニの娘ラウレッタは、目出度く結婚ができ、物語はハッピーエンドで終わる。
この中で歌われるアリアで、「私のお父さん」というのは、たしかメロウ会員パープルさんのお父様(95歳!(@_@;)の愛唱歌だと聞いた。リヌッチオの許婚者、ラウレッタが父、ジャンニ・スキッキの肩に手をかけ、切々と唄うときには拍手が場内に鳴り響いていた。
傑作だったのは、何もかも独り占めと云う感じの遺言が終ると、一同は腹いせの食卓に並んだ次から次と銀の食器などを持ち去るのだが、どさくさに紛れてスタッフでないはずの(日伊文化会館の)館長までが、銀の燭台だかを持って逃げるのを紋爺は見逃さなかった。
これは、このオペラの演出を手がけたドナーティ館長の、大勢の観客への精一杯のサービスだったのだろうか。(^_-)-☆ちなみに、館長は、このオペラの登場人物とおなじ、(ウンベルト)ドナーティという苗字だった。
なお、解説のさい、映し出されたダンテの「神曲」地獄篇第30歌の説明の絵は、あとで家で調べてみると、フランスの有名な版画家、ギュスターヴ・ドレの手になるものだった。
<つけたし>
公演が終わっても万雷は鳴り止まなかったが、そのあと舞台にはクリスマスの字幕があらわれ、観衆もそのあとステージに整列した出演者と一緒に、「清しこの夜」を歌った。そのあとは、観劇の興奮冷めやらぬ大勢の観客に対し、あらかじめ用意されていた赤白のワインが、大振りのツリーの飾られた一階のホールで、一斉に振舞われた。
このオペラについては、やれポンテ・ヴェッキオだ、やれシニョーリア広場だ、やれサンタ・クローチェだ、やれアルノ川だとやたらとフィレンツェの名所が出てきて、これじゃあまるで、フィレンツェの観光パンフレットみたいだなどと、批評する人もいるが、音楽之友社の『オペラ・オペレッタ名曲選』の3口メモなどでは「ヴェルディの「ファルスタッフ」以後イタリアに生まれた最高の喜劇的オペラ」だとしている。
また、映画ファンならすでにご存じと思うが、有名なアリア「私のお父さん」(O mio babbino caro)は、アカデミー賞映画「眺めのいい部屋」の主題歌にもなっている。
ーーーおわりーーー
『ジャンニ・スキッキ』を初めて観る
きょうは本年の掉尾を飾る大イヴェントに参加した。自分で大イヴェントなぞと云っていれば、世話はないが…。(^_-)-☆
しかし、あっしにとっては大イヴェントだったのだ。というのは、生まれて初めてのオペラだったからだ。演題は「ジャンニスキッキ」喜劇である。ことしは、プッチーニ生誕150年という節目に当たる。そこで、九段のイタリア文化会館では、150年記念公演と銘打って「ラ・ボエーム」と「ジャンニ・スキッキ」を上演した。
実は「ラ・ボエーム」にも大いに食指が動いたが、チケットを買ったころは寒く、開演時間も晩かったこともあって、「ジャンニ・スキッキ」に決めた。
ひとつにはあっしはお涙頂戴ものより、喜劇の方が好きだったこと、またこのオペラは、プッチーニの最後のオペラであること、かれの唯一の喜劇であること、また「外套」「修道女アンジェリーカ」につづく三部作の最後の作品でもある。
きょうは出かけるのが遅れ、開幕寸前に椅子に座ったが、館の方が前の空いている席に案内してくださったので、比較的まえの真中の椅子に座れた。始まりには、館長も舞台に登場して挨拶をした。公演の前のサイレント映画「プッチーニとの一日」は貴重なフイルムだ。サイレントなので、マッタク音がしないのは残念だが、お陰でかれが別荘でピアノを弾くところや、コモ湖に浮かんだ船の上で、休暇を楽しむ様子などが観られた。
NHKの語学講座などで、みなさんご存じのダーリオ・ポニッシも出演して、狂言回しのような役割を演じていた。舞台衣装を着て、片手には大きな本を持っていた。かれのユーモアあふれる日本語の解説で、上演前に、このオペラのあらすじがじゅうぶんに観客のあたまに入ったものと思う。また、原語による上演なので、舞台に吊るされたスクリーンに随時日本語の台詞が映し出された。劇の舞台がフィレンツェであったので、フィレンツェの大きなドームも常にスクリーンに映っていた。
ポニッシは時々観客に質問した。「フィレンツェにいったことのある人?」イタリアオペラのファンなのに、あまりに少ないのでびっくり。そのあとの質問はこの話が、イタリアの文豪ダンテ・アリギエーリの「神曲」に基づいていることを踏まえて、「神曲を読んだ人?」これにはどうやら、ひとりも手を挙げなかったようだ。というのはダーリオが「読んでくださいね」と結んだからだ。
(つづく)
いまテレビをつけていたら、この23日の祝日に、NHKでも「まるごとプッチーニ」という特別番組を放映するらしい。乞うご期待!あっしも23日が待ち遠しい。(^_-)-☆ (12月23日記)
『夢遊病の女』
夢遊病といえば、以前読んだ小冊子の小説にも、この患者が登場していた。英語でsleepwalkerと云うだけあって、眠りながら歩くというのが、その大きな特徴のようだ。(ほかにsomnambulistという表現もあることはある)いま、それを読み返している暇はないが、ぱらぱらとめくっていたら、16章の見出しに、夢遊病者の恐怖、とあるので、もしかして、睡眠中に犯罪を犯す恐れを云ったものかも知れない。
欧州では夢遊病は、ソンナンブリスト系のものが多い。ちなみに、この小説の原文はフランス語だが、その第14章は、そのものズバリのla somnambuleとなっている。夢遊病で有名なのは、イタリアの作曲家、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの二幕のオペラ「夢遊病の女」(La Sonnambula)であろう。
夢遊病者にたいして、夢遊病はsonnambulismoと云うようだ。この長い単語のうち、最初のsonnoが「眠り」である。ついでに云うと、昼寝のことをよくシエスタというが、あれはもともとスペイン語で、イタリアでは「眠り」ソンノに縮小辞をつけて、昼寝はソンネッリーノと云うらしい。
動物の中には、カツオ、オットセイ、カモメなどのように、よる眠らないものもある。夢遊病者とチョッと似ているような気もするが、人間の場合に繰り返すレム睡眠とノンレム睡眠の両方はなく、かれらには、ノンレム睡眠しかないそうである。
あっしはオペラ「夢遊病の女」をまだ観ていないが、メロディーの美しい、なかなか良く出来たオペラらしい。舞台は風光明媚なスイスということになっていて、夢遊病ゆえに許婚者に誤解されて、婚約を取り消されたアミーナが、伯爵ロドルフォの計らいで、恋人エルヴィーノの愛を取り戻す、ハッピー・エンドの物語だ。
ネットでこのオペラを調べてみると、夜、アミーナが眠りながら歩き、且つ唄うシーンがあるようだ。一度、その舞台をみてみたいと思う。
このオペラの歌手(アミーナ役)は、一体誰がいいのだろうか?サザランド、グルーベロバ、カラスなどの名が浮かぶ。
劇中で、夢遊病の女、アミーナが第二幕で唄う、次のアリアはとくに有名だそうだ。(ほかに第一幕のエルヴィーノとの二重唱も)
ああ信じられない、こんなにも早く
ああ、信じられない。枯れた花を見ることになるなんて
過ぎ去った愛と同じに
「夢遊病」は、れいのYouTubeでも、一部観ることができる。
http://jp.youtube.com/watch?v=7egCC9H6FUo&feature=related
http://jp.youtube.com/watch?v=vP6B3ADBiJ0&feature=related
いつも脱線して申し訳ないが、これが唐辛子の持ち味につきご容赦下され。オペラが絡んできたので、手元のオペラ関係書を見ると「夢遊病の女」が「無遊病の女」になっていた。きっと勉強ばかりして遊ばない、青白い顔の女なのだろう。同じ間違うなら「無憂病の女」くらい云って貰いたい紋だ。まだ、ほかにも、紋題の女がいる。無友病の女だって、また、無雄病の女だって頂けない存在だ。(^_-)-☆ ーおわり-
いわゆるマンモーネの紋題~4
> あれ?中性がないのですか。欧州圏はみんな三つ揃いかと思ってた。
> そのかわり中性脂肪はたっぷり付くのかな、あちらの女性は熟年過ぎると特に目立つのじゃありません?
そうなんすよ。中性脂肪は文字通りたっぷり。あっしの先生だったフィオーレさんも、黒板に向かうと、大きなヒップがたちまち教室を占領してしまいます。(^_-)-☆
そのくせ、授業が終ると嬉しそうにせっせとジムがよい。でもね、汗を流した後にすぐ、3センチ厚のステーキを食ったんじゃ、な~んにもなりませんやね。その証拠に、何時までたっても、その体型は変わりませんでしたね。(-_-;)
いわゆるマンモーネの紋題~3
なぜラテンかと云うと、スペイン語はあっしらニッポンジンにとってなによりも発音が゛易しい。あっしは、今までの何回かの海外旅行で、まずEnglish speaking countriesで発音を褒められたことは一度もありまえん。(-_-;)ところが初めて行ったスペインでは、着いた途端に褒められてしまったのです。
これが、フランスやドイツではこうは行きません。むかし、日本の留学生がドイツの下宿で、夜中にウムラウトの練習をして、一晩中ウーウーと呻っていたところ、下宿の女将さんが心配して、医者を呼びに行ったという話があります。
ことほど左様にドイツ語やフランス語は発音が難しいのです。また、ドイツ語なぞは、性が三つもあって、これにも悩まされます。男性、女性、中性というわけで。たとえば、例はよくありませんが、「くそ」ってのはダス紋だから(^_-)-☆、たぶん中性だろうと思って、ダス・シャイッセとかダス・脚気、じゃなおかった、ダス・カッケとやろうとすると、オットー待った。それは女性だと来ます。マッタクこまった紋です。(-_-;)
スペイン語では、男女ふたつだからまだいいと思いますよ。それにローマ字式の発音でも、なんとか通じるのもあり難いことですね。また性格も明るく、あまりつまらぬことでくよくよしません。カンタル、イ、バイラル・トードス・ロスディーアスです。(^_-)-☆
日本の会社名なんかも、これからは、ジャンジャン変えて、ケセラ・セラミックとか、ドンドン・乾せじゃなかった、ドンドンホセ・ウオッシングマシン・コーポレーションとかしたら、それこそ、ドンドン売れるかも知れまへんで、へっへっへ。
いわゆるマンモーネの紋題~2
二年ばかり前、ドイツの「シュピーゲル」のオンライン版で「イタリア人は、マンモーネで、そのうえパラサイト」だと、批評し、すぐ編集長が謝った事件がありました。こうした感想と云うか、批評というか、こうしたことは、たぶん今までも何回か繰り返されているのではと、思いますね。ジェレヴィーニ自身も、認めてるんですからね。
そのときの伊紙の記事には、俺たちだって、年がら年中、ただピザやパスタばかり食って、朝から晩まで、マンドリン弾いて暮らしてるわけじゃねえや、といった小見出しが付いていました。
ドイツの新聞では、平均的イタリア人を書いたつもりだったようですが、チョッと悪乗りしたことは確かです。30歳でマンマの手を離れ、結婚して料理人を変える。つまり、マンマから嫁さんへ。ここで嫁さんが、今度は料理する機械になり、新しいマンマにもなる。あんちゃんは、結婚した途端に、縦のものを横にもしなくなり、一日中、自分の愛車、つまりフィアットの洗車をしたり、車と会話をして暮らすようになる。メシの方は、なにも心配せずとも、時間になればかならず、テーブルの上に乗っかっている。まあ、こんな調子です。
イタリアのスポーツに付いても、なかなか手厳しいのです。夏のヴァカンスシーズンになると、まるでテレビに出てくるサッカー選手よろしく、大仰な身振りで何事かわめきながら、あっという間に、自分では試合場のつもりの海岸へ現れる。現われのはいいが、それもボールを蹴ったりなどはせず、蹴るといえば人様のすねを蹴ったりするのなら年中だ。たまたまに人に会ったりすると、相手を地面に突き倒したりなんかもする。
これじゃ、イタリア人だって、むっと来るんじゃないかと…。(^_-)-☆
> この頃は娘も家に居ついて嫁にも行かないケースが増えてるとか。日本民族はやがて絶滅ですねえ。
これからはの日本男子は、中国人も悪いと云わないけれど、繁殖力の強い、ラテン系の娘とジャンジャン結婚するのがいいのでは、と紋爺なぞは思うのですがね。
いわゆるマンモーネの紋題
よくイタリア人と聞くとマザコンと云う言葉が直ぐ頭に浮かびます。あちらでは、いい若い紋が毎日毎日、母親に電話をするというのが有名です。そこで、会場でもジェレヴィーニ氏は言われる前に、この紋題を取り上げました。彼自身は、この密接な関係が最高の親子関係と思っていて、ゼンゼン恥ずかしいなどと思っていない、と言い切ります。
彼はあまり言わなかったのですが、これには住宅事情も大きく影響しています。というのはあちらでは、日本のようにワンルームマンションという、便利この上もないものが存在していません。従って、親元を離れるとなると、大家族の住むような大きな家(いわゆるマンションですが)を借りなければなりません。賃料もそれなりに高く、若者には到底払いきれません。
彼の場合は大学はヴェネツィアですが、家がローマやフィレンツェのような大都会でなく、クレモナという「片田舎」(彼の言葉)で、電車通学に片道4時間も掛かってしまうので、やむなくアパートに住むことにし、友人とルームシェアをしたそうです。
でも、ほんとうは、やっぱり、マンマの手料理が一番で、これに勝るものはないそうです。かれが4年間アメリカに留学したときは、マンマが観光と称して、息子の暮らしぶりを偵察に来たそうです。いろいろ無理をして、高い料理や観劇などで歓待したけれど、滞在中「こんな料理だったら国ではもっと安くで食べられる、とか、こんなものなら向こうにだって一杯ある、こんなことばかり言いつづけていたそうです。息子への過度な愛情と、お国自慢が一体になっている感じです。
ふるさとのクレモナにも日本からの留学生がいるそうですが、聞くと、8年も故国に帰っていないとか。彼は日本では、カッコいいことかもしれないが、これでは母親が可哀想だと言っていました。 おわり
☆参考:マンモーネは、お母さん子と云う意味です。
スリッパからシンデレラへ
あっし風情では、カサノヴァやジェレヴィーニに、いろいろと恋の成就についての注意やアドヴァイスをもらっても、時すでに遅しであまり役にも立ちそうにないので、代わりに先ほどの「スリッパ」について考えてみる。
スリッパと云うのを、初めてウィキペディアで調べてみたら、これって、純然たる日本製なんすてね。(@_@;)徳野何がしと云う男が、明治の初めに考えついたんだ、と。あっしはまた、スリッパと云うのは英語にもあるし、ふつう片仮名で書くんで、今の今まで、あちゃら製とばかり思い込んでおりやしたよ。(-_-;)
スリッパと聞くと、あっしはどういうわけか、シンデレラのお伽話を思い出してしまうんですね。あれはバージョンによってみんな履物が違っていて、フランスのシャルル・ぺロー・バージョンではガラスの靴、ドイツのグリム・バージョンでは銀の靴、ついで金の靴になっており、イタリアのバジーレ・バージョンでは、ピアネッラと云う名前の履物になっている。
このピアネッラは、ウィッキペディアでは、ピアネッレとなっていて、説明に「17世紀のイタリアで履かれていた木靴」とある。ピアネッレの文字が色変わりしているので、占めたと思ってクリックしてみると、「ウィキペディアには現在この名前の項目はありません。」だと。ないんだったらわざわざ反転なんかさせるなっての。
で、手元の辞書に当たってみると、(かかとの低い)スリッパ。木靴とスリッパじゃあエライ違いだ。プンプン。
今度はあちらの辞書で、ピアネッラを引くと、チアベッタが一番先に出て来て却って分からなくなる。(-_-;)チアベッタの次にはパントーフォラがのっている。これはまあ「スリッパ」だ。最初の辞書にはチアベッタはなく、チアベットーネなら出ている。これじゃあ、しょうがないやと思ったけど一応見てみると、スリッパ、靴を引きずって歩く人、とある。引きずるとなれば、やはり底の低いものであろう。木靴ではそう低くないような気がする。
別の辞書に当たると、ピアネッラは、はっきりと「突っかけ靴、スリッパ」と書いてある。また、チアベッタはないが、チアバッタならちゃんと載っていて「スリッパ、古靴」と書いてある.どうして辞書により、こうも違うのか。
ウィッキーの著者は、だいたいバジーレの本「ペンタメローネ」を読んでいるのか。バジーレの本は邦訳されてはいるが、たとえば岩波文庫なぞにはない。
けっきょくこの話の載っている「ペンタメローネ」に当たってみることにした。さいわい龍渓西欧古典叢書に塚田孝雄氏訳のバジーレ『ペンタメローネ』【五日物語】(定価35,000円)がある。この本にはなかなか凄まじいタイトルの話がある。第1日の第10話は「生きながら皮を剥いでもらった老婆」というのだ。(@_@;)
まず注意すべきは、この物語はイタリアの標準語ではなく、ナポリ方言で書かれているので、紋題の履物はピアネッラではなくキアネッロ☆となっていること。訳文ではこの箇所が靴カバー(それに、キアニエッロというルビ)となっている。しかし靴カバーとなると、日本のスリッパとは大分ちがうような気もする。
なお、この話は所謂ディズニーなどのシンデレラ物語とは可なり趣を異にしている。ちょっと覗いて見よう。
よく童話の本やディズニーの映画に出てくるような魔法使い、仙女、ネズミ、母親の形見、かぼちゃ、小人だのは出てこない。鳩は出てくるが、鳩よりナツメの実の方が主役のようだ。
バジーレ・バージョンでは、シンデレラに名がついているのも大きな違いだ。通常は名前などはどうでもよく、シンデレラと云う仇名のもとに、物語が進行する。ちなみにヒロインの名はゼゾッラという変わった名前だ。
この話は一般に流布されている話よりずっと複雑で、まず寡夫の王さまが登場し、その娘がいわゆるシンデレラ、新しい后を迎えいれるところはよくある話とあまり変わらないが、ここに娘の裁縫のお師匠カルモジーナと云うのがでてくる。これが後に后の地位を襲い、第二の継母になる。カルモジーナは王との結婚に成功すると、次第に今までは溺愛していたようにさえ見えたゼゾッラを遠ざけ、隠しておいた実の娘達(6人もいた!)を可愛がるようになる。この話ではその娘達も名前を与えられている。インペリア、コロンバ、フィオレッラ、ディアマンテ、コロンビーナ、パスカレッラというのだそうだ。
例の大王様の開く大舞踏会ももちろん忘れられてはいない。まず継母の娘達が着飾って出かけ、灰まみれ猫とさげすまれたシンデレラも遅れなせながらその後を追う。このさい、お手伝いするのは彼女が毎日世話をしているナツメヤシの中に潜んでいる、妖精だ。また、馬車で帰る途中、うっかり上靴を落としてしまうところも一緒だ。この話、つまりシンデレラ物語の類話は中国にもあり、中国版のシンデレラは葉限という名だ。
写真は、1645年初版の「ペンタメロン」灰まみれ猫(第1日第6話)見開きと本文の該当箇所です。17世紀の刊本なので、普通の図書館では、まず見られない珍品だと思いますよ。(^_-)-☆ おわり
☆ ナポリ方言辞典を覗くと、キアネッロはないが、キアネッラ(chianella)ならある。標準語ではpantofolaスリッパとなっている。面白いのは、標準語の「ピア」がどうやら「キア」に変わるという文法法則のようなものがあるらしいことだ。ちなみに、泣くピアンジェレはキアンニェレとなる。もちろん、全てに当てはまるわけではなく、ピアノフォルテはピアネッフォルテであるし、たとえばキアーヴェ鍵は、やっぱりキアーヴェである。アクセントはチョッと違うらしいが…。
カサノヴァの戦略
ジェレヴィーニの話に、カサノヴァが出てきたことも、カサノヴァをただ悪玉と見るだけでなく、かれのやり方に学んだ方が男女関係はすべてうまくいく、と説くのがジェレヴィーニであることも、すでに述べた。
ではどんな点が見習うべき点か。たとえば彼女が彼の部屋を訪れた場合、どこに目をつけるか。フルーツ皿が眼に入る。それは完璧なレイアウトで盛り付けてある。これは女の眼から見て、落第、だそうだ。
本棚がある。ところが、小難しい本がぎっしりと並んでいる。これも落第。肩の凝らない小説が望ましい。本の量もあまり多くては駄目。
一、二枚ならいいが、自分の家族の写真がどの部屋に行っても飾ってある。これも落第。
近所との付き合い方もチェックの対象。日常、隣家のカギや留守中の郵便物を預かったりしているかどうかも、大事なチェックポイント。
動物や植物を飼ったり、育てたりしているか。トイレや風呂の清潔度のほか、外出の頻度も検討される。閉じこもり型はもちろん、アウトだ。
ベッドシーツは綿がいいそうだ。これがシルクだと、女はジゴロを連想するのだとか。
かずかず挙げた中で一番あっしの印象に残ったのは、人前でスリッパをはかない、というやつだ。あっしの家にもスリッパはある(あっしは殆どはかない)が、それがどうしていけないのか。スリッパと云うのはあちらでは、マイナスイメージだそうで、ダサイんだそうである。病人や老人などを連想させるという。 そういえば、昔、病院と云うとかならず、入り口にスリッパが置いてあったのを思い出す。今でも個人経営のところでは、一般医のところでも、歯科医のところでも、スリッパを置くようになっている。
広辞苑などでは、冒険家のほかに漁色家などとも書かれているカサノヴァだが、たとえば、自宅で贈り物を渡すときにも、すぐ渡したりせず、適当な時間帯まで気長に待ち、ここぞというときを選んで渡す。また、部屋の照明にもじゅうぶん配慮し、相手をその気にさせるような色使いや照度や香りを設定したと云うし、情事なども無理やりではなく、相手のほうから仕向けるように巧みに誘導したらしい。こうした細かな気配りや準備のために、まず狙った獲物は百発百中だったという。つまり、いわゆる口ほどもないセオリストなどではなく、用意周到な実践家だったようだ。
ドナルド・キーンとジェレヴィーニ
ドナルド・キーン氏の日本語とジェレヴィーニ氏のを比較してみると、やはり後者が格段に上手い。そのわけを考えてみた。
まず、キーン氏が最初に接した日本の小説はなんであったか。それは1000年も前に書かれた世界最古の小説、紫式部の「源氏物語」である。それに対し、先日紋爺が直接本人から聞きだしたところによると、ジェレヴィーニ氏が最初読んだ小説は、20世紀の作家、谷崎潤一郎のある小説(の伊訳)であったようだ。まず、これだけの違いがある。(^_-)-☆
また、キーン氏については、芭蕉についての著作が多い。ジェレヴィーニ氏も、略歴をみると、たしかに古事記、日本書紀、西鶴なども読んでいるらしいが、有名になったのは、現代の作家、よしもとばななの翻訳によってである。
それから、キーン氏も東京に住まいがあるようだが、現役はすでに退いているような気がする。それに反し、ジェレヴィーニ氏は、早稲田大学イタリア研究所(Institute of Italian Studies)のぱりぱりの客員準教授である。現役で日本の学生に教えている。ということは(特に若い人たちと)日本語で話す機会も、キーン氏に比べ圧倒的に多いと思われる。また最近は古典よりはむしろ、現代文学に傾注しているようにも見受けられる。
それにキーン氏の場合は、もう来年は87歳、かなりの高齢である。一方、ジェレヴィーニ氏はまだ、40に手が届くかどうかと云う若手である。これでは、勝負にならぬのも無理からぬこととも云える。年のことは脇に置くとして、親日家で音楽マニアのキーン氏には、今年度の文化勲章に満足することなく、もう一踏ん張りして貰いたい紋である。(^_-)-☆
ドナルド・キーンと私~4
キーン氏の講演会場に向かって靖国通りを歩いていると、沿道に色々な店が並んでいる。その看板を何気なく眺めていると、イタリア料理の看板が先ず眼に入った。屋号が「フェスタ」と片仮名で書いてある。それはもちろんいいのだが、書き添えてある外国語が「Fiesta」となっている。フィエスタはスペイン語で、これではスペイン料理になってしまう。
ま、これは別にたいしたことではない。だが、つぎの看板にはギョッとさせられた。インド料理店だったからだ。ふつうインド料理の屋号では、「デリー」とか、「マハラニ」「ルンビニ」「タージュ」などが多いような気がするが、それが「ムンバイ」だったのである。その途端、テレビに映った火炎と逃げ惑う人たちの姿が、眼前に浮かんだ。(-_-;)
むかしムンバイがまだ、ボンベイだったころ、飛行機のトランジットで一回、空港に降りたことがある。それを思い出した。あの頃は、平和でほんとうによかった。(^_-)-☆あのころもしこのような事件が起きていたらと思うと、ゾッとする。
もっとも、会場に近づいたときには、こうしたことはすっかり忘れていた。(^_-)-☆
ドナルド・キーンと私~3
もうひとつ思い出したことを。進行の英氏が「講演がチョッと時間オーバーになったため、キーンさんへの質問時間がなくなりました。そこで私がかわりにした質問と答えを紹介させていただきます」と前置きして話されたものがそれです。
「キーンさんはオペラのことに大変お詳しいが、ご自分でも歌われるのか?」というのがその質問でした。その答えは「私はとにかくオペラが大好きだったので若い頃は人前でもよく歌いましたよ。でも変声期になってからは歌はなくなりました」と。この変声期というのは、子供のころの変声期ではなく、あっしは第二の変声期ではないかと思っている。じじつ、中高年の音楽グループのあるソプラノがこぼしていた。さいきんは、高い音が以前のように容易に出なくなって、ほんとうに困っている、と。(-_-;)
ドナルド・キーンと私~2
> 氏が日本文学に造詣が深いことは数々の著作で有名であり、あっしでも一応は承知していたが、イタリア・オペラの熱烈なファンであることは、残念ながらマッタク知らなかった。
文化人ぞろいのメロウのこと、キーン氏が音楽の友社の雑誌「レコード芸術」に英語で寄稿し、中矢一義氏がそれを邦訳して好評を博し、後に単行本となった「音盤風姿花伝」をすでに読了された方も、もちろん大勢居られることと思う。
それさえ読んでいない、こんなずぶの素人でも、氏の口から音楽といることの幸せを教えられると、音楽と云うものは、素人には素人なりの楽しみ方が出来るものだという、なにかホットした気持ちに成れるはずだ。氏は命の続く限り、日本全土に幸せの種を蒔いて歩きたいと、語っておられた。
音楽の愛好者の中には、キーン氏の興味がオペラに限られ、たとえば、器楽曲とか、声楽曲にはマッタク触れていないし、登場する歌手も古いというので、それに不満を表明する人もあるようだが、こういう楽しみ方だってあってもいうな気がする。(^_-)-☆
ドナルド・キーンと私
というと、まるであっしがキーン氏と友だちかなんぞのように聞こえるかもしれないがそう考えるのはまだ早い。(^_-)-☆先方はアメリカのコロンビア大学の教授で、しかも本年度の文化勲章受章者である。同格のわけがない。つまり、キーン氏は講師、紋爺は聴衆の一人に過ぎない。
もうすこしはっきり云うと、きのう、東京は千代田区九段の某所でキーン氏の講演があり、紋爺がそれを聴講したというわけ。始まりが午後7時なのに、どういうわけか、3時頃に着いてしまったので時間調整に苦慮した。闇雲にそこら中を歩いていたら、ついに帰り道が分からなくなり、この分ではまた何時かのように『一番早く来たのに、最後はビリ』の憂き目を味わわなければならないのではと、焦りに焦った。
まあ、心配するほどのこともなく、ほんとうは着いてみたら一番だった。そのため会場にも入れて貰えず、待合室で待たされた。さいわいルパンの活躍する文庫本を一冊持っていたので、時間をつぶすのに苦労はしなかった。こういうばやい、早めに着くといいことがある。それは席が選べることだ。結局前から三番目くらいの席に坐れた。
演題をいうのを忘れていた。べつに勿体をつけていたわけではない。「イタリア・オペラとの出会い」というのである。
氏が日本文学に造詣が深いことは数々の著作で有名であり、あっしでも一応は承知していたが、イタリア・オペラの熱烈なファンであることは、残念ながらマッタク知らなかった。
壇上のドナルドさんは、意外と小柄で、またさすがに歳はかくせず、なんとなく覚束ない足取りに見えた。また、贅沢を言えば、その日本語もなんとなく聞き取りにくく、むしろ英語やイタリア語をいう時のほうが分かりよかった。たとえば、「好き」というのが、あっしには「シキ」と聞こえた。
氏は幼時からの音楽体験を順を追って話されたが、太平洋戦争従軍中も(アリューシャン、ハワイなど)、毎日のようにレコードを聴いていたと云うから驚く。また貴重な音源を沢山所蔵しておられ、それをこの場でも披露された。
オペラとの「最初の出会い」はエンリーコ・カルーソだったそうだ。初めてその声を聴いたのはまだ30年代だったので、「蓄音機」で聞いたという。ついに病み付きになった氏はイギリス留学中というから多分、1948年頃と思うが、よく演奏会場に足を運んだが、その頃のある日、当日は超人気歌手出演のため行列に並んでも、容易に切符が手に入らなかった。駄目かなと諦めかけた時、運よく近くで「一枚あります」と叫んだものがあり、それが高価な席だったのか、氏の前に居たイギリス人は、お金が足りなかったのだろう、已む無く断念した。そこへ「ケンオすべき」アメリカ人がひとり現れ「お金ならありま~す」と名乗りを上げてその切符を買いとったのです、と話されたが、もちろん、そのアメリカ人というのは、キーン氏のことであることは云うまでもない。(^_-)-☆
名歌手の歌を(ちなみに、先ほどのエンリーコ・カルーソをはじめ、ベニャミーノ・ジーリ、フェルッチョ・タリアヴィーニやマリア・カラス、ドイツ、アメリカの歌手もつぎつぎ登場した)合間合間に巧みに取り入れた講演会も、ついにおしまいに差し掛かったとき、悼尾を飾るかのように、正面のスクリーンに三大テナーのひとり、プラシド・ドミンゴのすがたが大写しになり、お陰で予想してもいなかった、オペラのビデオまで、僅かの時間であったにせよ、観ることが出来た。(^_-)-☆
氏の軽妙な語り口には、会場の隅々から好意ある笑い声がおこり、立錐の余地のないほど大勢の客で埋まったホール(370席)の中に、和やかな雰囲気をかもし出していた。またおしまいには、主催者、共催者からキーン氏に二つの花束が手渡され、それを受け取った氏は、ちょうど両手に花の形になり、この二時間におよぶ講演会は華やかな幕切れを迎えた。
場内では、講演に対する謝意と文化勲章授賞への賞賛で、嵐のような拍手の音が、いつまでもいつまでも途切れることがなかった。 (おわり)
☆ きのうの講演会で、挨拶、講師紹介を務められた元駐伊大使・英正道氏はアメリカで公使をされていたとき、ドナルド氏と知りあい、それ以来20年以上に及ぶながい親交があるということでした。 (11/29記)
カサノヴァの戦略
ジェレヴィーニの話に、カサノヴァが出てきたことも、カサノヴァをただ悪玉と見るだけでなく、かれのやり方に学んだ方が男女関係はすべてうまくいく、と説くのがジェレヴィーニであることも、すでに述べた。
ではどんな点が見習うべき点か。たとえば彼女が彼の部屋を訪れた場合、どこに目をつけるか。フルーツ皿が眼に入る。それは完璧なレイアウトで盛り付けてある。これは女の眼から見て、落第、だそうだ。
本棚がある。ところが、小難しい本がぎっしりと並んでいる。これも落第。肩の凝らない小説が望ましい。本の量もあまり多くては駄目。
一、二枚ならいいが、自分の家族の写真がどの部屋に行っても飾ってある。これも落第。
近所との付き合い方もチェックの対象。日常、隣家のカギや留守中の郵便物を預かったりしているかどうかも、大事なチェックポイント。
動物や植物を飼ったり、育てたりしているか。トイレや風呂の清潔度のほか、外出の頻度も検討される。閉じこもり型はもちろん、アウトだ。
ベッドシーツは綿がいいそうだ。これがシルクだと、女はジゴロを連想するのだとか。
かずかず挙げた中で一番あっしの印象に残ったのは、人前でスリッパをはかない、というやつだ。あっしの家にもスリッパはある(あっしは殆どはかない)が、それがどうしていけないのか。スリッパと云うのはあちらでは、マイナスイメージだそうで、ダサイんだそうである。病人や老人などを連想させるという。 そういえば、昔、病院と云うとかならず、入り口にスリッパが置いてあったのを思い出す。今でも個人経営のところでは、一般医のところでも、歯科医のところでも、スリッパを置くようになっている。
広辞苑などでは、冒険家のほかに漁色家などとも書かれているカサノヴァだが、たとえば、自宅で贈り物を渡すときにも、すぐ渡したりせず、適当な時間帯まで気長に待ち、ここぞというときを選んで渡す。また、部屋の照明にもじゅうぶん配慮し、相手をその気にさせるような色使いや照度や香りを設定したと云うし、情事なども無理やりではなく、相手のほうから仕向けるように巧みに誘導したらしい。こうした細かな気配りや準備のために、まず狙った獲物は百発百中だったという。つまり、いわゆる口ほどもないセオリストなどではなく、用意周到な実践家だったようだ。
ばななの好きなイタリアーノ~4
> かれは思ったより、親切な人で、サインが欲しいというと、すぐに「お名前は?」と来た。自分の名前を告げると、今度は「日にちも入れた方がいいですか?」と聞く。「はい」と答えると「東京にて、2008年11月21日、紋次郎氏へ、感謝の念をこめて アレッサンドロ・ジェレヴィーニ」と書いてくれた。若い(現在39歳)に似合わず、なかなか丁寧な人だと思った。比較して悪いが、千住真理子さんのサインは、ただマジックで、CDの表面に、自分の名を、くしゃくしゃっと書いただけだったのだ。
見返しと呼ぶのでしょうか、本を開いた直ぐのところにしてもらったサインがこれです。 ジェレヴィーニについては、まだ、若いので、さらに別のブームを巻き起こすのではと、心ひそかに期待しています。
完
ばななの好きなイタリアーノ~3
> ジェレヴィーニさんの話が終ったあと、二、三十分だか、質問の時間があり、あっしはこの時とばかり、沢山質紋をした。終って解散になっとき、著書にサインを貰う列に並んだが、男はミーハーのあっしひとりで、後は女(三人くらい)だった。
あっしの質問など聞いても面白くないでしょうから、他の方のを紹介しましょう。ま、云ってみればいかにも日本人らしい質問だったような。突き詰めて云えば、あっしには、すべてがイタリア人に対する恨み節に聞こえた。大体、ここへ来るような人は、男女年齢を問わず゛、イタキチが多い。たとえば女だと、イタリア人と「オトモダチ」になりたいと云うのがもっとも多い。
2、30代に見える若い子は「あたしたちが、こんなに尽くしているのにイタリア人は冷たい」という。現実に振られたり、相手にしてもらえない、などの深刻な事情があるのかも知れない。50代くらいの女の人も「メールを出しても梨のつぶて。一回も返事を呉れない」と不満そう。どうしてでしょう?とか、どうすれば?とか聞かれても、ジェレヴィーニ氏は返事に困るだろう。
あっしなどが思うには、イタリア人にも色々あろうが、平均的なイタリア人なら何よりもおしゃべり好きだから、もし彼らとコミュニケートしたいと思うなら、メールを止めて、電話に切り替えたらいいと思う。
それから、やはり50代くらいの男の発言は、麻生首相の失言に関したもので、あなたなら、これくらいのコトバは、決しては間違えることはないだろう、といった、趣旨の曖昧な発言で、これにもサンドロはヘキエキしている様子だった。
自分を含め、日本人と云うのは、こういう場での適切な質問がじつに下手くそだと思った。かりにアメリカ人だったら、ドイツ人だったら、中国人だったら、また本国人だったら、どんな質問が出るのだろう、日本人のよりはまだ、ましなような気がする。いちど会場に潜入して聞いてみたい紋だ。
別に相手の答えやすいものを用意する必要はないだろうが、もうすこし洗練された質問が出来ぬものだろうか。これがお開きになったときのあっしの、偽らざる感想であった。
ばななの好きなイタリアーノ
文壇登場当初は「吉本ばなな」だったが、5年前、全部平仮名の「よしもとばなな」に改名したという。そのばななを訳して、イタリアにばなな旋風を巻き起こした張本人といわれるアレッサンドロ・ジェレヴィーニ。その彼のトーク会があるというので、一度顔だけでも見ておこうと、きのうは腰の重い紋爺も久しぶりに上京した。何でもばななはイタリアで空前のベストセラーとなり、彼の翻訳家としての地位も、そのお陰で確立したのだという。
なお、彼の前に、ジョルジョ・アミトラーノという人物がおり、その人がばななブームの火付け役と書いているものもある。
あっしはその方の専門家ではないので、だれが先駆者でも一向に構わないが、以前にばななとジェレヴィーニさんとの共著「イタリアンばなな」(日本放送出版協会刊)を読んだ感じでは、ばななと彼はかなり親しい友人関係だと思う。なんでもアミトラーノ氏は、本国で東洋学博士であり、有名女流作家エルサ・モランテの名を冠した翻訳賞や、日本での野間文芸翻訳賞の受賞などもあるので、サンドロよりは何か、だいぶ格上の感がある。
アレッサンドロは、現在早稲田大学で準教授の地位にある。きのうは「イタリア人との付き合い方」という、肩の凝らないテーマで一時間半くらい話した。やはり、日本語には神経を使うのか、自著のコピーらしきものを何枚も卓上に置いていた。会場はまん前にソニービルが見える、西銀座デパート二階のイタメシ屋である。聴衆は女が多く、男はというと、ちらほらといったところだった。
講師はさすがイタリア人らしく、話の中に色事師、ジョヴァンニ・ジャコモ・カサノーヴァを登場させた。彼はカサノーヴァの欠点をあげつらうより、彼の所業には男女を問わず、見習うべき点が大いにある、と力説していた。一口に云えば、ジャコモは女の心理に精通していて、それを上手くコントロールしていたという。現代人も自分の恋愛にこれを十分に生かせば、きっと役立つと云っていた。
ほかにオモシロかったのは、イタリア人のいわゆるこ狡さで、これはメロウのSHIGさんの話にもよくでて来たが、イタリアではこの狡さを、原語でfurbizzaと云うらしい。これは日本では完全にマイナスイメージだが、あちらでは寧ろプラス評価になるという。
カンニングの話も面白かった。彼のクラスメートで、エレーナという女の子がいたそうだ。その子は試験当日、スカートを二枚も穿いてきた。試験の最中、時々そのスカートを捲り上げるのだそうだ。そこには小難しい数学の定理がぎっしり、しかも天地を逆に書いてあったという。この手で彼女は、試験にらくらくパスし、薔薇色の人生を謳歌したらしい。サンドロは、彼女を責める気持ちは毛頭ないとあっしらの前で公言した。なぜなら、自分もけっこう、学生時代はカンニングのお世話になったからだと云って、聞いているみんなを笑わせた。また、現在日本の大学で教えているが、学生が分からないというとすぐ白紙で出すのは困り紋だ、と。カンニングしたっていいから何か少しでも書いてから、出して欲しいと、こぼしていた。(^_-)-☆
ジェレヴィーニさんの話が終ったあと、二、三十分だか、質問の時間があり、あっしはこの時とばかり、沢山質紋をした。終って解散になっとき、著書にサインを貰う列に並んだが、男はミーハーのあっしひとりで、後は女(三人くらい)だった。
かれは思ったより、親切な人で、サインが欲しいというと、すぐに「お名前は?」と来た。自分の名前を告げると、今度は「日にちも入れた方がいいですか?」と聞く。「はい」と答えると「東京にて、2008年11月21日、紋次郎氏へ、感謝の念をこめて アレッサンドロ・ジェレヴィーニ」と書いてくれた。若い(現在39歳)に似合わず、なかなか丁寧な人だと思った。比較して悪いが、千住真理子さんのサインは、ただマジックで、CDの表面に、自分の名を、くしゃくしゃっと書いただけだったのだ。
アテネ・フランセの想い出~6
「むかしのフランス語と今のフランス語」に書いたように、この学校は有名人を多数輩出しているので、あっしのような者まで、なにか誇らしげな気分に成ってくる。そのなかに、これも当時はマッタク知らなかったことだが、関口存男さんという怪物がいる。怪物と云えばたしかに大変失礼だが、あっしにはこうとしか表現の仕様がない。というのは、あっしの頭の中では、関口先生は、ドイツ語の先生(「関口ドイツ語」の名を冠した参考書は大ベストセラー)だとばかり思っていたからである。
この方が、J大学の学生でありながらアテネフランセに通い、たったの一年でフランス語をマスターし、翌年には同校のフランス語の教授、さらに8ヶ月後には同じくラテン語の教授になられたと聞くと、思わず耳を疑いたくなる。(@_@;)結局この方は、後年大言語学者として名を成すわけだが…。自分なりの努力はしたつもりだが、すぐに飽きてしまい、あっさり投げ出してしまった紋爺とは、どうやら人間の出来が違うらしい。(-_-;)
学者だけでも凄いことなのに、さらに驚くことは、演劇界でも活躍され、自身新劇の舞台にも立たれ、また有名なボーマルシェの「フィガロの結婚」の脚色まで手がけたとなると、もう開いた口がふさがらない。(@_@;)嬉しいのはあっしの住む佐倉の連隊に勤務されたことがあるというので、まずます親近感も湧いてくる。ご出身もあっしの両親と同じく、兵庫県だ。
先ほどのジョゼフ・コットに話を戻すと、かれは帝大(現東大)の講師から、東京神田の東京外国語学校の先生となった。この東京外語(前記の略称)は、あっしには縁がふかい。また恥を晒すが、若い頃入学試験で落ちたこと、また叔父が東京外語の出身であったこと、また、あっしが中学生のときの英語の先生が、同校の卒業生だったことなど。後年、サラリーマン時代、上司に同校の後身、東京外専のOBがいたことなど。
当時あっしは若気の至りもいいところで、「おフランス」にのめりこみ、原書でフランス文学史を齧ってみたり、フランス象徴派の詩人、ヴェルレーヌの「巷に雨の降る如く」の原詩を覚えようとしたり、同じくボードレールの詩、「エレヴァシオン」を暗誦して得意になったりしていた。哀しいピエロだったというほかない。(-_-;)
アテネ・フランセの想い出~5
> これは予備科の教科書です。
最後のページを開くと、『おわり』の文字が印刷されています。フランス語ではよく映画でおしまいのところで必ずFIN(ファンと発音)という字が出ます。
この本で見ると、それがEINになっています。EはFの誤植です。いつも(後世大臣の)マーチャンから「校正大臣」などと皮肉られている紋爺が何十年もの間、どうしてこの間違いに気づかなかったのか、答えは簡単です。教科書への鉛筆での書き込みが30ページくらいで止まっているからです。
もうひとつは、紙が悪く活字もちびったようなのを使っていたので、読みにくく、校正の際に担当者が見落としたか、また、これは冗談だが(^_-)-☆、業界ではこういう外国語の印刷を専門にやる印刷会社があることから、正規の担当者でないものが扱った可能性がある。たとえば、フランス語の係りが発熱で会社を休み、顧客から納期を急がれていることもあって、仕方なくドイツ語の担当が校正をした。
ドイツ語にはEINという単語が存在します。英語のOneです。でわでわ。(^_-)-☆








