ある不眠症の娘が歩いているうち、小暗い森に差し掛かりました。すると目の前に、みたこともない立派な城が聳え立っているのが眼に入りました。
娘は子供のころから昔話が大好きで、表紙がボロボロになるほど読み耽っていたので、それが有名な「眠れる森の美女」のお城であることが、ひと目で分かりました。
その日は何時になく、たくさん歩いたので、喉も渇き、とにかく水を飲ませてもらいたいと思いました。こうした中世の森ではもちろん、キリンやサントリーの自販機などあるわけがありません。さいしょはこんなに歩くつもりではなかったので、水筒も持っておりませんでした。
そこで、恐る恐る城の中を覗き込みすと、城内は13人目の意地悪な仙女の魔法によって、大臣から番兵に至るまでが、鼻提灯をだして、眠りこけております。とにかく奥へ通ると、ドアの開け放たれた小さな寝室にたどり着きました。そうして寝室のベッドでは、世界一美しい王女が、赤い糸で結ばれた素敵な王子の入ってくるまでの、百年の眠りを貪っているところでした。
その王女の美しいことと云ったら。不眠症の娘は、ベッドに臥せている娘は、こんなにも美しいし、とても品のいい顔をしているので、自分も今度生まれてくるときはキッと、この王女様にあやかりたい紋だと呟き、しばらくの間は見惚れておりました。
でも、暫くすると、喉の渇いているのを思い出した紋ですから、最初は小声で話しかけてみました。その声が小さすぎて聞こえなかったのか、美女は相変わらず眠ったままです。そこで不眠症の娘は、今度はもう少し大きな声でもう一度呼びかけてみました。それでも美女は目を覚ましません。
不眠症の娘はありったけの声で「今日は~」とわめきましたが、美女は微動だにしません。癇癪をおこした件の娘は、美女の耳元に口を当てて大声で怒鳴りましたが、それでも美女は眠ったままです。
呆れた娘は、しばらくの間、頬っぺたを抓ってみたり、枕を外してみたり、耳を引っ張ってみたり、頭をゆすってみたり、顔を引っかいてみたり、脇の下を擽ってみたりしていましたが、それでも美女は相変わらず眠ったままなので、大きなため息をついて、それから云いました。
「あ~あ、眠れる森の美女はいいなぁ。あたしなんか、毎晩眠れなくって、睡眠薬のんでみたり、医者通いをしてみたり、毎日大変な苦労をしてるって云うのにぃ。」
どうして美女の元に現れたのが、王子さまでなかったのかってぇ?それはね、丁度その時期、王子様は、残業で忙しくて来れなかったんだって。えーっ、王子さまが残業ぉ?いいじゃないすか、童話ではあーた、どんなフシギなことだって許されるんですからねぇ。
もう一つのヴァージョンでは、実際に王子が、複雑に絡み合い、天まで届く茨を切り開き、王女の城へ何とか到達するのですが、丁度そのとき早馬の近づく気配がして王子は立ち止まったのです。使者のもたらした情報は決定的でした。
ちょうど国では、百年に一度と云う大不況に国中が意気消沈している最中だというではありませんか。王や王子の投資した会社もつぎつぎ倒産し、いつも近隣の国々の羨望の的だっ巨万の富が、いまでは、殆ど紙くず同然だということです。
そこで、王子さまは、ここで王女を起こして国へ連れ帰ってみても、とても彼女を幸せにしてやれる自信がないと覚り、きょうは王女の顔を見るだけにして、ひとり淋しく城を後にするのでした。(おわり)