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ひと月ほど前に妻を失ったばかりの泰雄は、何をしても心が晴れず、空っ風の吹きまくる淋しい街をただ一人当てもなく、ふらふらと歩いていた。駅の近くへ出たところで、突然現れた大柄の黒っぽい服を着た男に一枚のチラシを渡された。
男が行ってしまってから、そのチラシを広げてみると、『古着の店リップ・ヴァン・トゥィンクル』とあり、「貴方のお気に入りの古着がたちまち見つかる斯界最大手のこのお店をぜひ一度お訪ね下さい。」と書いてあった。普段だったら、きっとすぐどこかへ捨ててしまうところだが、その日は非常に気落ちしていて、人恋しくもあったので、つい行ってみる気になった。というのは彼にも息子がひとりあるのだが、勤務先が山間の僻地にある所為もあって、亡妻の葬式のころちょこっとやって来たきり、普段はまったく音沙汰がない。こんなに顔を見せない日が多いと、オレもいつか、オレオレ詐欺に引っかかるんじゃないかと思うことさえある。
泰雄の住む街もご多分にもれず、最近はひどい変りようだが、以前はたしかこんな店は駅の近くにはなかったはずだ。何時の間に出来たんだろうなどと思いながら、歩いていくと、いつの間にか、それらしい店の前に立っていた。泰雄の姿をいち早く見つけた愛想のいい、30代にみえる若者が、直ぐ入り口に現れ「どうぞどうぞ」と先に立って奥へ案内してくれた。どうやらこの男のほかには店員はおらず、一人で店を切り回している様子だった。
店内は予想通り色とりどりの大小の古着で一杯だった。なんでもこの店はふつうの店とは違い、アメリカの古着は一切置いていないということだった。男はまず、泰雄に生まれた年を聞いた。1932年だと告げると、これが、その年の古着です、と男は一抱えの衣料を奥から運んできた。簡単な説明を加えながら、あれこれ出して見せてくれたが、そのなかにチョッと珍しいものがあった。よく見ると、なんと泰雄が若い頃着ていたものだった。なんで、こんなものがここにあるんだろう。思わず興奮して、「これ、ほんとにオレの若いころ着てたやつじゃないか!」と心の中で、小さく叫んだ。
「お気に召しましたか?」男はこちらの顔色を伺いながら、「もしかして、これ、お客様がむかし着ていらっしゃった物ではありませんか?どうも、お顔の様子からそんな気がしたものですから」泰雄は「そうなんだよ、これはね、オレがいつも着ていたヤツに間違いないよ。ほれここが少し破れているだろ。それからこのシミだってそうだよ。ほんとうによく今まで残っていたもんだなあ」とつくづく感心しながら泰雄はその古着を持つ手に、ついつい、力が入ってしまうのを感じた。
「よろしかったら、あちらで試着なさいませんか?」その声に釣られて、かれはもう試着室の方へひとりで歩き出しているのだった。ホールの隅にある小さな試着室で着替えたあと、中の鏡を覗くと、泰雄の顔が、そのころの顔に若返っていた。そうだ、オレはこれを着ていつも夜になると新宿界隈を歩き回っていたな、飲み屋へ行ったり、ニ丁目の赤線を冷やかしたり、帝都座で三本立ての洋画を見たり。
新宿御苑のあたりでは、在留のフランス人に会って、片言のフランス語で交歓したりしたこともあった。渋谷の道玄坂の近くの薄汚いアパートで、由美子とたった三ヶ月ではあったが、同棲していたのもあの頃だ。お互い若く、金もなかったしすぐ別れることになったが、クリスチャンだという由美子は生まれつき、とてもいい性格の女で、オレには勿体ないような存在だった。由美子とよく出かけた近くの喫茶店や、安飯屋やアパートから50メーターと離れていない銭湯のことなどが頭を掠めた。夕方になると、いつも二人揃って仲良くその銭湯へ出かけたものだ。などと思いながら、ふと何気なく前の鏡をみると、そこにはあの頃のままの由美子が大映しになっていた。
泰雄は、むかしの女の突然の出現にビックリして、「由美子じゃないか、どうしてる?」と思わず大きな声を出してしまった。こんな大声を出して、あの店員に怪しまれるんじゃないかと、急に気がかりになった泰雄は、試着室のカーテンを捲ってみたが、あの男はどこへ行ったのか、付近には見当たらなかった。再び眼を鏡の方へ戻した時には、もう由美子の姿はなく、ただの鏡に戻っていた。
カーテンなど、気にしなければよかったと思い、もういい加減感傷に浸るのは止めて、外に出ようとしたそのとき、今度は鏡の中央に、先日葬儀を終え、死出の旅に旅立ったはずの女房の幸恵がこちらを見ていた。「おお幸恵か。どうだ、碌な葬儀も出してやれなくて済まなかったな。あちらでは両親に会えたか。がんで早死した弟の悠一朗はどうしてる?」など矢継ぎ早に尋ねたが、幸恵はその質問には答えないで「先ほどは、久しぶりに由美子さんに逢えて良かったでしょ。あれね、実はあたしがアレンジしたのよ。」と云って、チョッと意地悪そうな笑いを浮かべた。
しばらく話し合ったあと、泰雄は試着室を出て、店の奥を見ると、先刻の若い店員が、こちらへ向かって歩いてくるところだった。「悪いね、あそこに長いこと入っていて。試着してみたら急に昔のことが色々と目の前に浮かんできてねえ、つい…」と言い訳を始めると男は、「ええ、皆さん、みんなそう仰いますよ。だって、本当に自分がむかし、着ていた服なんですからねえ、ふつう在り来たりの吊る下がりとは訳が違いますよ。次から次と感慨が湧いて来て、当たり前だと思いますよ」と相変わらずの笑顔で応じた。 (つづく)