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ある言語学者の視線


Yorimichihurahura1


黒田龍之助さんの「寄り道ふらふら外国語」を読んだ。この人の本は今までに何冊か読んだことがあるが、この人は言語学者だ。

  で、チョット引っかかるものがあった。そうだ、むかし千野栄一(チノ・エイイチ)と云う言語学者がいて、その方もなかなかの多作家で、何冊もの啓蒙書を書かれた。チャペックやクンデラを訳されているので、ご存じの方も多いと思うが。

  なぜ、ここで千野栄一さんが出て来るかといえば、この方も、専門が、スラブ語学だったからである。

  どういうわけか、スラブ語専攻の方は、たくさん本を書かれるが、たとえば、ロマンス語系の方は、学習書は書かれるが、随筆の様なものは、あまり書かれないのではないか。

  その黒田先生が、スラブ語以外のことが、たくさん出て来る、こうした本を書かれた。諸君、わたしは、ロシア語の先生ではなく、言語学者なんだよ、というわけである。これを読めば誰だって、先生をロシア語の先生、などとは呼ばなくなるだろう。

  そこには、実にたくさんの外国語が登場する。フランス語☆に始まり、イタリア語へ行き、ドイツ語に進み、スペイン語へ飛んだかと思えば、途中の『コラム』には、ポルトガル語やスウェーデン語、オランダ語なぞが顔を出したりもする。


 もちろん、本題の進行中にも、チェコ語やベラルーシュ語、スロヴェニア語などが、それとなく、ちらほら垣間見えたりもする。

 各章のタイトルも面白い。第1章がふらふらフランス語。第2章がいろいろイタリア語、第3章が、どきどきドイツ語、第4章がすいすいスペイン語といった調子である。

 随所に取り入れた写真も、なかなか、そんじょそこらでは、手に入らないような貴重なものを集めている。たとえば、37ページの、むかしむかしのラジオ・フランス語講座と説明のある、語学テキストの写真だが、この『ラヂオ・テキスト基礎佛蘭西語』は、昭和8年発行とある。

 それから、著者もさることながら、さすが語学出版老舗の白水社が手掛けるだけあって、編集にもそつがない。肩がこらないので、その辺にごろんと寝ころんでも、気楽に読める仕掛けになっている。どこから読んでも面白いが、

 なかでも、紅露外語のはなしは、もと東京人のあっしには、面白さとともに、懐かしさのようなものも、こみあげて来る。

 若い頃、御茶ノ水の、アテネフランセで、短期間学んだことがあり、その道すがら、この紅露外語という学校の看板を見て、紅露とは何だ。これはきっと、ロシア語の学校だろうと、黒田先生とマッタク同じようなことを考えながら、その前を通り過ぎた記憶がある。実は紅露と云うのは苗字で、この人の経営するドイツ語学校だったのである。それから、


 フランスはリヨンの、ベルクール広場に銅像のある、サンテグジュペリの著書「星の王子様」は、もともとはフランス語だが、147ページには、そのタイ語版、カンボジア語版の表紙が出て来る。しかし、

  この本の中で、一番ビックリさせられるのは、おそらく、これではないか。つまり、スペイン語は、スペイン以外では、ブラジルを除く南米のすべての国で話されるという日本人の『常識』についてだ。

  先生によると、南米のガイアナ共和国の主要言語は英語、スリナム共和国はオランダ語。フランス領ギアナでは、カリブ語とスラナン語だそうで。(@_@;)だいたい、世の中に、スラナン語なんというのがあるというのは、あっし奴、今の今まで全くスラナンだった。(-_-;)

 さらに、ガイアナ、スリナムでは、ヒンディ―語までが、話されている、と。こうなると、あくまでもインドへ到着したと信じていた、コロンブスも、あながち、間違っていたとは云えないのかも知れない。(^O^)


  この説を唱えたのが、先生の勤務する大学の、外国語学部の、事もあろうに、スペイン語専攻の学生であったというから、いかにこうした『俗説』が、あっしを含め、日本国全体に蔓延しているかに、改めて驚かされる。★(おわり)

 ☆ 著者の語学行脚は、あっしらと同じように英語から始まるが、そのあと、はロシア語にも手を出し、さらに、フランス語にまで手を伸ばす。

 ★黒田先生はさすが、言語学者だけあって、南米の線引きの紋題であるとか、南米ばかりでなく、アフリカの赤道ギニアでも、スペイン語が話される事実にも目を向けるように注意を喚起することも忘れない。もちろん、スペイン国内の、非スペイン語についても。 

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「独逸日記」に、意外な記述~読書余滴


Mikado


鴎外の、例の「独逸日記」を何の気なしにパラパラやっていて、意外な発見をした。その内の二つ三つをご紹介。


 例の物知りウィッキーさんの、オリエント急行の項を見ると、この豪華寝台列車、いわゆるワゴン・リは、明治16年に開通記念列車を、パリ~イスタンブル間に走らせている。そこで、

  「独逸日記」の明治20年9月28日の項をみると、えっ、9月28日といえば、何と今日ではないか!この時、彼はカールスルーエからオーストリアのウィーンまで乗っている。

  読者は、ずいぶん贅沢な、あるいは、要するに初物好きなんだね、と思われるかもしれないが、これは当時、ウィーンで万国衛生会という会議が開かれ、石黒忠悳さん(当時軍医監、少将相当)という方が日本政府代表として出席された。鴎外はその随行を命ぜられたわけである。


  ただ残念なのは、あのワールドフェイマスな、オリエント急行列車の、乗り心地や車内の調度などについて感想の記述が、マッタクないことだ。もっとも、彼は当時、日本食論に没頭していたので、それどころではなかったのだろう。

  その証拠に会場で、自著の日本兵食論を出席者に配ったりしている。また、会議の際には、石黒に頼まれた舌人(通訳)の役もこなさなければならなかった。


 この石黒さんというのは、鴎外の上司であるが、日記では石氏になったり、石君になったりしていて、面白い。


  つぎ。こんにち大流行中の『イタ飯食い』の開祖は意外にも、鴎外だった。しかもイタ飯だけでなく、イタリアン・ワインの有名銘柄、名画「ローマの休日」でもお馴染みの「キアンティ」まで飲んでいたという。

  食べ物の方は、オリエント急行乗車の1年前の初夏、日本人の友人3人と、民顕(ミュンヘン)は『ヨーゼフ・ヴィシンタイナー』★という屋号の伊太利酒店で、北イタリアの名物、ポレンタなどを食している。イタキチのあっしでさえ、ことしの旅行で初めて食したというのに。

  お味の方は、珍しく書いてあり、どうも硬くて、あまり美味くなかったようだ。思うに、この店は、友人の中の、原田の提案だと思う。原田は鴎外の無二の親友で、渡欧後、かの地の美術学校に学び、チェチリアなり美人学生とかなり深い交際をしている。彼女はその名前からして、どうみてもイタリア系であり、また愛人のマリイを伴ってイタリアなどへも旅行している。あっしには、原田は、普通人以上に、イタリアが好きだったように思えるのだ。

  第3に、あっしらが本年の6月、クレモナを訪れた際、自販機から入手した菓子の箱に、MIKADOと書いてあったことは、メロウの「旅行記」に既に報告済みだが、これはイギリスの有名なオペレッタで、上演回数が672回と云うから、当時は大変なロングラン公演だったのであろう。

  現在でも公演はあるようだが、初演が明治の18年で、鴎外はその翌年にこれを観劇している。感想としては、役名の中国人風の名がまず、気にいらなかった。ヒロインがヤムヤム(鴎外の日記ではユムユム)では、他は推して知るべしと、一刀両断のもとに切り捨てている。しかし、娘役の着物の着方などには目を留め、これは褒めている。また、


  鴎外は公私ともに超多忙で、その上小説まで書いていたのであるから、当時イギリスで、日本ブームがまき起こっていたなどという背景にまでは、思い至らなかったのであろう。終戦直後、東京のアーニーパイル劇場で(現東京宝塚劇場が進駐軍に接収され、一時改名)これが上演されたことがあったことは、あっしも、マッタク知らなかった。グリコのおかげで、初めて知った次第。グリコよ、有難う。(^^♪ 【9月28日記】   (おわり)

 ★屋号が、『ドルチェ・ヴィータ』とか、『ダ・カーポ』などだったら、すこしは美味いかも知れないが、この屋号じゃ、どうせドイツ料理の延長のようなものを食わされたのに違いない。(^^♪

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Re: ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-~2

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  最近、柄になくドイツの話題ばかり取り上げるようですが、じつは昨日上野の美術館で、そこらにあったパンフの類を委細構わず、リュックへ放り込み、後でみたら、先日当地でやっていたのと同じような「日独150年の歴史 国際都市長崎からみたドイツ」展というのを、現在長崎市でやっているんですよね。しかも、オドロクじゃあ,ありませんか。

  展示の始まった9月19日には、当地歴博の館長久留島浩さんが、招かれて記念の講演をしたようです。この頃は云わなくなりましたが、あっしが当地へ越してきた頃は、よく、『西の長崎。東の佐倉』という言葉を聞かされました。長崎との浅からぬご縁を感じます。

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Re: ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-~2

Krombacher1


    (つけたり)

  うっかりして、『ドイツ展』の締めを忘れていた。実は観覧後、ミュージアムショップに立ち寄ってみると、こんなものがった。

  たぶんドイツ展の観覧者の懐を当て込んで、大量に?仕入れたのであろう、ドイツビールと、そのおつまみである。

  おつまみの方は、Wienerと書いてあったが、ドイツ産のソーセージで、ビールの方はKrombacherと云う銘柄で、ラベルに小文字でNo.1Premium Beer Brand in Germanyと英語で説明があった。

  陋屋のポンコツ冷蔵庫の隅で、長いこと、無言のまま座っていたらしく、こちとらは、雑事に取り紛れて、その存在をマッタク忘れていた。これを飲(や)らないことには、事実上、この書き込みもほんとうの「完」にはならない筈なので、今宵はぜひこれを飲って、ケリ(^^♪を付けるつもりである。(おわり)

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Re: ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-~2

> 茶々を入れるようで申し訳ありませんが、年数の辻褄が少し合わないようですが
> まあそれは小さなこと。

これは、あっしが主催しているわけではないのでして。(-_-;)また、

 あっしは、歴博専紋のウオッチャーでもないので、よく知りません。で、

ネット上で、関係する歴博の『プレスリリース』と云うところを読むと、こんなことが書いてあります。つまり、

 G さんのおっしゃるように、日本とプロイセンの間に、修好通商条約が締結されたのは1861年で、そこから150年たった2011年に、日独の各地で、すでに記念の行事が行われたそうです。(歴博はその時には、やっていないのでは?)で、多分、

 当歴博では、当時日独関係史の記念行事を行わないうちに、数年が経過した。あるいは、その間に行事を行ったところの資料なども参考にし、それらをも読み込んだうえで、着々と、2015年本展開催の準備をしていたのではないでしょうか。で、さっきの、

 『リリース』の続きを読むと、

 「日本とドイツは、幕末に外交関係を結んで以来、150余★年の交流の歴史を持ち、」とあるので、そのように察せられます。
 
 ★余年の「余」にご注目!
 

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Re: ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-~2


  Gさんより、下記のコメントがありました。Gさん、ありがとうございます。


紋次郎さん、面白いお話のおまけありがとうございます。

>  うっかりして、書き落としたが、なぜ150年かと思われた方へ。1862年、わが国幕府は(竹内)遣欧使節団をかの地に派遣しましたが、その前年の1861年、わが国とプロイセンは修好通商条約を結びました。それから、150年と云うことです。交渉の担当者は、わが方も幕府なら、先方も、まだドイツ誕生前のプロイセン王国でした。会場内には、この時、条約締結に活躍したドイツ方の、オイレンブルク伯爵の肖像画も飾られていました。

茶々を入れるようで申し訳ありませんが、年数の辻褄が少し合わないようですが
まあそれは小さなこと。


>  添付写真は、渡航した幕府使節団のカリカチュアですが、日本側も、ドイツ側も、いずれ劣らぬ『出る腹』に描かれています。漫画にするには『出る腹』が不可欠とでも考えたのでしょうか。かの地の「クラダラダッチュ」という風刺漫画誌に掲載されたそうですが、21世紀の今日、その現物が館内で見られることはオドロキです。

確かに漫画だからでしょうが、当時の日本人武士、こんなに「出る腹」の人は少なかったと思いますね。ドイツは、ビール、ソーセージ、ポテトですから、お腹が出やすいのはわかります。まあ、今の日本人も美食家になってますが。

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ドイツと日本を結ぶものー日独修好150年の歴史-~2

Japanischen1

前回いちおう(つづく)などと書いてみたが、あまりつづくものが、無いような気がする。でも、(つづく)と書いた責任上(^O^)、もうすこしつづけてみることにする。

XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX  XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX  XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX


  最近、ドイツはVWの不正ソフト使用の紋題で大揺れに揺れている。そこで、車王国ドイツの一大スキャンダルに若干触れて見ようかとも思ったが、かの地では、何でも日本製の『おにぎり』が大人気とかいうので、批評は控えることにする。(^_-)-☆

  で、ドイツ展の展示の方へ戻るが、捕虜収容所での盛んな文化活動のほかに、印象に残ったことを挙げれば、やはりあっしの敬愛する森林太郎こと森鴎外、日本の国際社会への紹介におおいに尽力して呉れた、成りきりオランダ人ことフィリップ・シーボルト、それに地元の史跡、順天堂蘭学塾関係の展示物などなどである。また、

  ドイツとの橋渡しに生涯をかけた日本人として大活躍、ついには外務大臣にまでなった青木周蔵と云う人物。あっし自身、恥ずかしながら本展で初めてその存在を知ったが、この仁、すでに日本人妻がありながら、ドイツの伯爵令嬢と結婚するという破天荒な、日本人離れをしたところが、とにかくスゴイ。両者を比較すると、エリーゼを故国に「追い返した」鴎外は、青木に比べ、ちょっと、だらしない感じに見えて来る。

  150年と云うタイムスパンでは、色々なことが起こりはしたが、兎に角これだけ続いたので、両国の関係は、将来にわたって、ますます緊密にしたいものだ。

  展示物はみな、それぞれに面白かった。だが、その内でも、白眉と云うべきは、アインシュタイン来日の際、地方回りをした。その時同行した岡本一平が描いたというアインシュタインの似顔絵が、実によく出来ており、あっしは辺り構わず、大声で「上手いっ!」と叫んでしまった。

  企画展示室はA、Bの2室に分かれ、あまりにも多くの展示物で溢れ返っていたので、どうもうまく考えがまとまらないが、ドイツ学草創期の辞書、文法書の類いなども、関係者には、おおいに参考になるものと思う。


  他に、青木周蔵とは別の意味で、沖縄の宮古島に建てられ両国の懸け橋となった、「ドイツ皇帝博愛記念碑」(現在は破損状態がひどく、建立地から撤去されたよし)★、それに木戸正次郎(孝允の甥)の「洋行願」などは貴重な資料だと思う。

  ★ 同館には、その拓本がある。


  うっかりして、書き落としたが、なぜ150年かと思われた方へ。1862年、わが国幕府は(竹内)遣欧使節団をかの地に派遣しましたが、その前年の1861年、わが国とプロイセンは修好通商条約を結びました。それから、150年と云うことです。交渉の担当者は、わが方も幕府なら、先方も、まだドイツ誕生前のプロイセン王国でした。会場内には、この時、条約締結に活躍したドイツ方の、オイレンブルク伯爵の肖像画も飾られていました。

  添付写真は、渡航した幕府使節団のカリカチュアですが、日本側も、ドイツ側も、いずれ劣らぬ『出る腹』に描かれています。漫画にするには『出る腹』が不可欠とでも考えたのでしょうか。かの地の「クラダラダッチュ」という風刺漫画誌に掲載されたそうですが、21世紀の今日、その現物が館内で見られることはオドロキです。(完)

9月27日記

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Re:ドイツと日本を結ぶもの―日独修好150年の歴史ー

  あっしの記事に対し、Gさんから、下記のコメントがありました。Gさん、ありがとうございました。<(_ _)>

  紋次郎さん、おはようございます。

>  で、第一次で戦勝国になった日本は、ドイツ兵を日本国内の複数の捕虜収容所へ入れた。捕虜との関係は大体において友好的で、ドイツ人捕虜は、近隣の市民ともおおいに交流した。

>  この「ドイツ展」で、あっしは、話には聞いていたが、実際には一度も見たことのない捕虜の作った音楽会のプログラムなどを実見することが出来た。彼らの中には入隊前、様々な職業についていたものが居り、そのおかげで近隣の市民は、彼らから種々の技術をじかに教わることが出来た。いわゆる技術移転である。多数のデータの中に、彼らの作った種々様々な印刷物が残されている。それが、当時は

>  ガリ版しかなかったという割には、なかなか立派な出来で、どう見ても素人離れしている。捕虜の中には、ペンキ屋から大工、パン屋から肉屋と、何でも揃っていたらしい。

>  九州は久留米の収容所でのコンサートでは、なんと捕虜がワグナーの「パルジファル」を演奏したそうである。

1920年ごろのお話でしょうが、日本にドイツ人捕虜収容所があったとは、初め知りました。

その後、ドイツとはなかよくなっていくので、待遇も結構自由だったのかもしれませんね。

それにしても立派なプログラムですね。垢抜けしている感じがします。
                           

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Re: ドイツと日本を結ぶもの―日独修好150年の歴史ー

「prisonerswork.jpg」をダウンロード

>  ガリ版しかなかったという割には、なかなか立派な出来で、どう見ても素人離れしている。捕虜の中には、ペンキ屋から大工、パン屋から肉屋と、何でも揃っていたらしい。

  これはその坂東捕虜収容所の、ドイツ人捕虜たちのの作ったという、展覧会のポスターです。

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ドイツと日本を結ぶもの―日独修好150年の歴史ー

Deutchundjapan1

  きょう(と云うのは8月29日のことだが)、国立歴史民俗博物館で「印籠展」と云うのを観た。そのついでと云ったら「ドイツと日本を結ぶもの展」に対してタイヘン申し訳ないが、成り行きからそんな具合になってしまった。

  それというのが、同じ館内ではあるが、「印籠展」の方が、「ドイツ展」より同館の入り口に近いところでやっていたからだ。ところで、

  ドイツというのは、日本にとって敵か味方かとなると、これはチョット難しい。たしかに第一次世界大戦の時は敵方だったが、第2次では同盟国だった。

  で、第一次で戦勝国になった日本は、ドイツ兵を日本国内の複数の捕虜収容所へ入れた。捕虜との関係は大体において友好的で、ドイツ人捕虜は、近隣の市民ともおおいに交流した。

  この「ドイツ展」で、あっしは、話には聞いていたが、実際には一度も見たことのない捕虜の作った音楽会のプログラムなどを実見することが出来た。彼らの中には入隊前、様々な職業についていたものが居り、そのおかげで近隣の市民は、彼らから種々の技術をじかに教わることが出来た。いわゆる技術移転である。多数のデータの中に、彼らの作った種々様々な印刷物が残されている。それが、当時は

  ガリ版しかなかったという割には、なかなか立派な出来で、どう見ても素人離れしている。捕虜の中には、ペンキ屋から大工、パン屋から肉屋と、何でも揃っていたらしい。

  九州は久留米の収容所でのコンサートでは、なんと捕虜がワグナーの「パルジファル」を演奏したそうである。

  それから先日は、メロウの某会議室で、紀元2600年の話題で盛り上がっていたようだが、この時はその奉祝歌というものを作るということになり、各国に作曲を依頼したらしい。すべての国がそれを引き受けたわけではないが、ドイツは「皇紀二千六百年祝典曲」というのを送り届けてくれた。この作曲を手掛けたのが、かの有名なリヒャルト・シュトラウスであった。

  館内のヴィデオでこの曲を流し、花電車を何台も走らせてくれたので、あっしは一時、まるで、メロウ倶楽部の「昭和の部屋」にでも、いるような錯覚に陥った。   ー9月26日記ー

                                (つづく)


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印籠展~2


Inroupamph2


そもそも印籠と云う言葉がいけない。印籠ではない。薬籠である。館のパンフレットでものっけから「印籠は常備薬を入れ腰から提げて持ち歩くための」と明記してある。なぜ印籠かと云えば、もともと中国ではこれはクスリでなく、印鑑や印肉を入れる容器であったためである。だが、

  ポルトガル人が来航した頃には、薬籠★でなく、すでに印籠になっていた。(日葡辞書)

 構造は、一般に三段から五段になっていた。各々の容器をしっかりまとめるために緒締と云ものがあるが、これを腰に提げるには別に根付というのがあり、印籠とともに、これも職人たちが競って芸術性の高いものを作り上げていった。

  外国でもこの印籠、根付の人気は高く、かなりのものが海外に流れたが、のちに買い戻されたものも相当数ある。モチーフも、花籠であるとか、動植物、昆虫、山水のような風景、はては古代中国の逸話に材を取ったものなど、その種類はまさに百花繚乱の感があった。

  また、技術面でも、蒔絵、螺鈿、象嵌、彫漆と、これも千変万化の様相を呈していた。材質についても、あっしなぞトーシロは、その辺の木に漆をぬったものだろうと早合点してしまいがちだが、木ばかりではなく、何と皮だの竹だの、へえ、金属、動物の牙や角、陶器なんてものまでが印籠つくりに使われたのである。また、

  沖縄などでは、堆錦という手法があり、説明によれば、漆に顔料を混ぜ、槌で叩き、薄く伸ばしたものを表面に貼り付けて作るものがあるという。

  形状も一様ではなく、人間の顏のように角ばったもの、丸みを帯びたもの、ケイタイそっくりの薄型のもの、大きくてずっしりと重量感のある、弱腰の侍では、何かのはずみに腰が抜けてしまいそうなのまであった。

  また普通は無銘だが、中には名人上手の作なのか、有銘のものもあった。芝山細工などは、象嵌、蒔絵の特色を最大限に生かしたその華美な様子から、海外の富裕層にも大人気で、かなりの量が輸出されたというから、昨今のマンガもさることながら、こうした芸術品もじゃんじゃん作って、カイガイの富裕層の、がま口のふたを開かせてみてはどうか?

  あっしは、光圀公の印籠を仔細に眺めたことはないが、表も裏もただの紋章だけではないだろうか。

  あっしがこの展示で、一番気に入ったのは、表裏を合わせて、ひとつのストーリーを構成しているもの。例えば、昔から犬猿の仲などと云うが、その逆を取って、イヌとサルが、仲良く首引きをしている図を、ただ表だけに描くのではなく、表にイヌ、裏にサルを描いて、印籠をひっくり返して楽しめる仕掛けのものを会場で見たが、これには参った。

  これを見ての感想だが、いまの世では、真のユーモアが失われつつあるが、江戸人のユーモア感覚にも、見習うべきところが意外と多いのではないか、と思ったことだ。


 桃山時代から印籠を腰に下げる習慣はあったらしいが、一般人にはまだとても手の届かない存在だった。

 一般人が買えるようになった頃には、専門店ではデザイン帳のようなものを置くところも増えたようだ。もっとも、隣の旦那と同じものをぶら下げたのでは、サマにならないが。(^O^)

 見るからに高そーな印籠では、とても無理だが、宝くじでも当たったら、印籠は後にして、根付でもぼちぼち集めてみたいような気もする。     (おわり)      ー9月25日記ー

 ★ あっしの若い頃、漢文で「時価薬籠中の物」などという言い回しがあった。いまは英語文化の時代で、こうしたものは次第に忘れられていく。薬籠と云えば、日に数十錠の薬を飲む人では三段や五段の薬籠では、間に合わぬのではないかと、いらぬ心配をする、あっしである。たしか、百円ショップに、一週間分の曜日を書いた、樹脂製の薬籠(印籠?)があったような。

   写真は、薬籠展のパンフレットです。

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印籠展の記

印籠と云えばたしか、前にもここでやったことがあるぞと、思いつつ観覧をした。歴博の館長は良く変わるので、現在の館長はたぶん、前回の展示をご存じないのかも知れない。

 こういう、日本的で、贅沢品の装身具の展示は、たしか、正月にやったはずだ。和服を着ることの多い時期でもあるし、日本的な感じを強調するにも、正月が一番だと、あっしも思う。

 かと言って、べつに時期が悪いと云っているわけではない。人それぞれの考えもあろう。

 こういう展示は、毎年やる和宮様のひな人形の展示と同じ、第3展示室と云うところでやる。ここはスペースとしては、決して大きいとは云えないが、品物がだいたい細々したものなので、ここで十分なのだろう。

 印籠と云えばひとはすぐ、水戸黄門の葵の紋章の入ったものを連想すると思う。しかし、テレビではうんざりするほど、毎回見せられるが、黄門さまの印籠など、下々の者など、滅多に見たり、携帯など、とても出来るようなものではなく、特別の品だ。


 もちろん印籠は、最盛期には武士、町民なぞも競って腰に下げたはずなので、根付とともに、じつに多種多様のものが作られた。ところで、

 この展示の会期は8月30日までで、もうあれから一か月近くもたつので、ボケ老人のあっしとしては、次第に記憶も薄れがちだが、少しくその感想をつづってみたい。(つづく)

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良平さんを偲ぶ

  今年のニュースでやはり、印象に残るのは柳原良平さん他界のニュースです。S亭さんのように、特に知り合いというわけではありませんが、あっしらの年代では、みんな例外なく『知り合い』と云っていいのではないでしょうか。

  この時代のサントリ―宣伝部の人脈をみると、コピー関係では良平さんと机を並べたという開高健あり、『洋酒天国』の2代目編集長の山口瞳あり、イラスト関係では、柳原良平、さくらクレパスや主婦の友で活躍した、キャリア豊富の坂根進あり、といった具合で鉄壁の布陣といっていい。

  さいきん、良平さんの「アンクルトリス交遊録」を読んで大発見をした。実はあっしは7月にミニミニイベントをやったのだが、その時旅に出ようコーナーに、客船に造詣の深い良平さんの「「客船史」を散歩する」「船図鑑」「船旅の絵本」などを陳列し、すぐ隣に、特に深い考えもなく、野間恒さんの「豪華客船の文化史」を置いた。

  ところが後で知ったことだが、「交遊録」の舟キチ仲間という章に、この野間さんが出て来たのである。しかもさらに読み進むと、この人がまだ学生のころからの知り合いだそうである。

  あっしが、二人の著書を並べたのには、やはり浅からぬ縁があったから、自然とそうなったのかも知れない。ただ、

  この「交遊録」、地元の図書館に頼んだら、当市のすべての図書館になく、かなり離れたF市から取り寄せてくれたのだが、裏表紙に『汚れあり』と書いてあるだけあって、どうもばばっちい。内容に紋題はないのだが、これだけは、どうも頂けない。(-_-;)


  今回、「交遊録」で知ったことは、あのアンクルを指して良平さんがしきりに、二頭身半と云うことだった。ミスユニバース日本代表で、世界大会で見事3位に入賞した、伊藤絹子の、スタイルがいいというので、八頭身と云う言葉が当時大流行したのを思い出した。その逆を行ったわけで、漫画だけによけい可笑しい。さて、

  この間、東京のN町へ行き、さる骨董屋を覗いたら、あるはあるは。良平さん絡みのもろもろが、入口の付近に、いろいろあるではないか。

  何がってあーた、良平さの絵の付いたコースターから、マグカップ、戦士コップ、ビアマグもあったような。さらに上の方を見ると、おおおっ、あっしが端本で持っていて、ミニミニで展示した「洋酒マメ天国」が、36冊揃いでデ~ン、ただし、お値段が2万円だと☆。これじゃあ、ビンボー人のあっしでは、チョット手が出ない。一応、拝むだけで素通りしました。(おわり)   -9月18日記ー

 ☆ 木製函付きになると、4万円近くにもなるらしい。(@_@;)

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Re: 忘れ路の北イタリア~4

Feltronelli1

>  このマークは、ヴェネツィアだけでなく、フェッラーラの書店で、買い物をした時のレシートにも、付いていた。

  これがそのフェッラーラのフェルトリネッリ★書店でもらったレシートの裏面。小さいが三菱のマークが。これはおそらく、三菱製紙だと思う。


★思えばこの書店も、販売だけでなく、出版も手掛けているが、相当の老舗である。

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忘れ路の北イタリア~4

Mikado_2


この稿を終えるに当たって、もう一つ付け加えたい。それは日本企業の進出である。カイガイでは、どこへ行っても、日本企業の看板が目につき、非常に心強く、その都度励まされる。


 だいたい、車の会社のものがおおい。トヨタや、ニッサン、ホンダ、スズキなど、どんな僻地にも看板があり、驚かされる。

  国別でも、ドイツやフランスだけでなく、ギリシャやクロアチアなどで、ひょっくり、看板にぶつかったりすると、特別嬉しさがこみあげて来る。

 車ばかりでなく、時計屋やカメラ屋、プリンタのエプソン、それから自転車メーカーのものも、あったように思う。


 お恥ずかしいはなしだが、オランダでは、旅券を紛失し、急きょ自分の写真が必要になった。このとき、驚いたのは、オランダのD駅だったかの、構内にも、日本と同じような簡易撮影スタンドのようなものがあった。器械の説明に、英語、日本語がなかったので苦労したが、後で調べてみると、この機械のメーカーが埼玉県の企業だった。

 今回の旅では、また変わった発見をした。その場では気付かなかったが、ヴェネツィアの、マルコポーロ空港の構内でミネラルウォーターの小瓶を買った。後で、裏をひっくり返すと、そこに懐かしい三菱のマークが。

 このマークは、ヴェネツィアだけでなく、フェッラーラの書店で、買い物をした時のレシートにも、付いていた。

 クレモナでは、さらに驚くようなことが待ち構えていた。駅の近くで、珍しく自販機コーナーを発見。それも、日本で見るように、3~4台が一か所にまとめて置いてあった。仔細に眺めると、どっかで聞いたような表にMIKADOと書かれた、キャラメルの箱のようなものがあった。

 「ミカド」と云えば、英国かなんかのオペラの名前だったっけ。とにかく、それをゲットして持ち帰った。

 これは大分たってから、ふたたび眺めまわすと、表にちいさくglicoのロゴを発見。裏には、これも非常に小さいが、例のバンザイマークがついている。

  う~ん、してみると、イタリア人『万歳』が好きなのか。あっしはあまりこの手のものを買ったり食べたりしないので、知らなかったが、これは日本国内で「ポッキー」という名で売られているお菓子だった。

 いろいと考えるまでもなく、これを作っているのは、多分グリコとイタリアの某菓子製造会社との合弁企業にちがいない、という結論にたどり着いた。どうも、お疲れさま。

                               (おわり)


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Re: 忘れ路の北イタリア~3


Salviamo1_2


>  この切手は、1973年の発行なので、その後もう、40年以上も生き延びていることになる。(^^♪なお、切手の印刷面は、サン・マルコ広場が水面下に沈んだ様子を表し、右上には「ヴェネツィアを救おう」の文字が。

  と書きながらあとで、どこにもその文字のないことに気づいた。申しわけありませんが、該当写真を再掲させて頂きます。ついでに若干説明を加えると、前方に見える2本の柱の上の像は、向かって左側が、この広場の名前となった聖マルコをかたどったライオンの像で、右側はテオドロ聖人の像である。

  ということは、正面が大運河ということになるが、それでいいのだろうか。(^^♪

  なお、ふつうサンマルコ広場と云っているのは、大聖堂のある広いスペースで、その手前というか、運河に近いところも小広場になっているのはご存じのない方も、多いのではないか。

  つまり、このところはL字型になっているわけである。また、これらの柱は、運河から船で着くと、早く大聖堂を見たい一心から、観光客の中には、意外と見落としている方も多いかも知れない。

  さて物知りウィッキーさんによると、中世には、2本の柱の間に死刑執行台があったそうで、縁起が悪いので、地元民はゼッタイ、この間を通らないのだとか。

  あっしなぞ、もう何度もこの間を通っているので、首の皮も今ではだいぶ厚くなっているのかも知れない。(^O^)

  カイガイ旅行の際、こうした歴史というか、文化的な背景を知ることは、面白くて、ためになると、あっしなぞは、ひそかに思っている。

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Re: 忘れ路の北イタリア~3

Venesottoacqua1_2

ヴェネツィアは近日中に海中に没するかも知れないということで一時世界中の関心が集まり、ユネスコまでが、拠金事業を始めたことがあった。あっしも当時乏しい小遣いの中から金三千円なりを寄付したものである。

 しかし、現在でも相変わらずそこに存在している。この分ではあっしより長生きすることは間違いないと思う。


  今さっきネットサーフィンをしていたら、このことに関心を持つ人がほかにもいて、質問をしていた。その回答によると、昨今の異常気象による海面上昇より、ヴェネツィアの場合は、地盤沈下の方が紋題だとしていた。なるほど、軟弱な地盤の上にずっしりした重量感のある建物を数多く載せている。

  今まで、あまり気にせずあの石畳を歩いていたが、急に心配になって来た。まさか、雪解け時の氷の上ではないが、歩いている内に地面が割れて海底に吸い込まれたりはしないであろうが。

 たまたま手元の古切手を弄んでいたら、これがヴェネツィアの切手で、しかも、

 この切手は、1973年の発行なので、その後もう、40年以上も生き延びていることになる。(^^♪なお、切手の印刷面は、サン・マルコ広場が水面下に沈んだ様子を表し、右上には「ヴェネツィアを救おう」の文字が。

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忘れ路の北イタリア~3


Pietaa

北イタリアでは、2回以上行ったところがいくつかある。それはヴェローナ、パードヴァと、このヴェネツィアである。しかも、ヴェネツィアは3回目である。


  よほど相性がいいのかも知れぬ。しかも、この街は他のイタリアの都市に比べ、非常に多くの魅力に富んでいる。

   こんな面白いところが、ほかにあるだろうか。一番素晴らしかったのは、港を後にするクルーズ船の、いと高き甲板の上から、箱庭のようなヴェネツィアの風景を眺めたときで、眼下には、ほかの港ではチョット見られない光景が展開していた。

   陸地に立つ、色も形も大きさも違う、無数の建物、橋や森、公園など。教会の塔などが、いくら見ていても飽きないほど、次々に展開していく。

  運河を行きかう大小の船、その交通はとめどなく続く。

  また、今回のヴェネツィア歩きでは、ツアはもちろん、個人旅行でも通らないような、飾らない庶民の暮らしぶりを直接目の当たりにできた。これは、ガイドが地元の人間で、ヴェネツィアのあらゆる小路、路地に精通していたからこそできた街歩きだったと思う。

  まるで、そこがナポリの下町ででもあるかのように、ビルとビルの間にたくさんの洗濯物が、まるで横断幕のように吊るされていたり、黒い生ごみの袋が、家ごとに外壁に括りつけてあったり。


  『パラッツォ・ドゥカーレ』★の夜間見学では、ふりの旅行者ではなかなか見られない堂内のあれこれを、椅子に掛けたままゆっくり鑑賞したり、普段は外側から眺めることの多い、パラッツォ内の牢獄をあたかも囚人か看守ででもあるかのように、その狭い石の通路を、実際に歩いてみたり房内を恐る恐る覗いてみたり、


  その挙句には、例の『ため息橋』に立って、当時の囚人の心に思いを馳せながら、前方に小さく見える世界各国からの大勢の観光客を、反対側から眺めるという、ゼイタクで、チョット得難い体験まですることが出来た。

  以前は、もちろん、あっしも、外側からこの橋を写した覚えがある。ところで、

  あっしらは恵まれていると思う。前に来た時は、カナル・グランデ(運河)で、予想外の大ボート大会(時期が5月だったので、いわゆるヴォガロンガだったのであろう)にぶつかり、世界中から参加した男女の漕ぎ手に見とれたり、これも世界の津々浦々からやって来た、老若男女の観客を観察してみたり。立って漕ぐ、ヴェネツィア独自の漕ぎ方に感心したり、ヴェネシアングラスで世界的に有名なムラノ島では、スリの洗礼を受け、帰りの船賃が乏しくなり、『あわや俊寛!』というところまで、追い詰められたことを含め、ヴェネツィアでは、

 とにかく、色々な面で、目いっぱい楽しむことが出来た。
 
★ヴェネツィア共和国の総督(イタリア語ではドージェ)の住まいだった由。こんなに立派な宮殿に住んでいては、毎日の掃除もさぞかし大変だったろう。(^^♪ (つづく)

  写真は、マーチャンを置いて、アッカデミーア美術館に単身赴任(^^♪し、館内を見学した時のもの。絵はヴェネツィア派の、ベッリーニの「ピエタ」。


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Re: 忘れ路の北イタリア~2

 今度は、G さんから、コメントを頂きました。G さん、有難うございます。


  紋次郎さん、みなさん、こんばんは、

 フェッラーラのご案内ありがとうございます。

 イタリア北部エミーリア=ロマーニャ州(州都はボローニャ)の西部の大きな都市ですね。隣のトスカーナ州の州都はフィレンチェで、ルネッサンスで強い繋がりがありましたね。

> フェッラーラには初めて行った。あまり下調べをしなかったので何があるのか知らなかった。ところが、ここはかの有名なジローラモ・サヴォナローラの生誕の地だった。

 そうですね。近いフィレンチェに出ていったのは必然だったかも。

>  あっしらは、サヴォナローラは狂僧であると教えられていたが、果たして彼をこの一語で葬り去っていいものか。メジチ家の政治は正しかったのか。かなり乱れていたのではなかったか。やはり、社会にはある程度の節度というものが必要ではないのか。

  メディチ家の批判をやるところまではよかったかも。始めは時も彼に味方したかもしれません。

>  わが国でも、寛政のころ奢侈禁止令がでたりした。これに従わないものは幕府の容赦ない弾圧を受けた。火刑こそなかったが、歌麿の危な絵は狙い撃ちにされ、京伝などは手鎖の刑に処せられた。

>  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

  そう思います。修道僧だから、宗教的信念で突っ走っては行き詰まるかもしれない。ローマ教皇にまで批判の目を向けて、メディチ家が反攻してきるなどしては、持たないのでしょう。時も変わってきたし、市民からも厭きられたということもありそう。最後は絞首刑の後に火刑。

  ただ、教皇さえ恐れない態度は、後の宗教改革の先駆者とも見られているようです。


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Re: 忘れ路の北イタリア~2

>  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

と書いた後、おとといだか、美術史家の松浦弘明氏の「世紀末におけるボッティチェリ」という文章に出会い、ボッティチェリと云う画家をより深く知ることが出来た。
 
  それまでは伝統にのっとって制作に励んでいた彼ではあるが、1490年以後大変貌を遂げるのである。たまたま、グアルディと云う富豪に、祭壇画を依頼されたボッティチェリは、当時の慣行を破って、画期的な画面を作り上げたという。

  テーマは例の「受胎告知」だが、従来の静的な表現を至極当然のように考えていた画家仲間を、アッとのけぞらせるような、スゴイ作品を発表したのだ。つまり、画中の登場人物がすべて動いている。聖母マリアが、ヨハネが、マグダラのマリアが、アリマタヤのヨセフが、血の通ったポーズを取っている。

  こういう人だったからこそ、過激なサヴォナローラの言説が理解できたのではないか。ボッティチェッリは「ピエタ」でも、ペルジーノなどの使った、ありきたりの表現に、到底甘んじられなかったのが、よくわかる。

  有名なヴァザーリは、自著「美術家列伝」の中で、ボッティチェリを、くさしてはいるが…。

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Re: 忘れ路の北イタリア~2


Placcaebreo


>  また、フェッラーラは、スペインから追い出されたユダヤ人を大量に受け入れた町としても知られていて、ユダヤ系の家に生まれた地元の作家、ジョルジョ・バッサーニも、そのことに触れている由。あっしも、ヒマが出来れば、バッサーニの「フィンツィ・コンティーニ家の庭」(ヴィアレッジョ賞受賞)でも、ゆっくり読んでみたい。

あっしらが知らずに写真を撮っていたマッツィーニ通りはもともとゲットーのあった地域で、しかも写真の建物は、地味で気が付かなかったが、現役のシナゴーグ(ユダヤ教の教会)でありかつ、ユダヤ博物館だったらしい。

  ここには、シナゴーグが複数あったが、戦争中にファシスト達の手で破壊された模様。95番と云う数字はマッツィーニ通りの番地を意味する。

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Re: 忘れ路の北イタリア~2

Z さん、レス、有難うございます。

> 私はヤクルトファンな紋で、傘は大歓迎です。

そのようですね。野球の観客席の雨傘は、ヤクルト名物でしたね。ところで、雨傘は、洋の東西を問わず、なかなか情緒がありますね。

  フランス映画に「シェルブールの雨傘」なんてのがありますね。これはヒロインの家業が傘屋だそうで。

  雨傘はフランス語でパラプリュイ。プリュイとなると、ヴェルレーヌの詩が思い浮かびますね。巷に雨の降るごとく、ですか。雨も降りすぎは困りますが、適当に降って呉れれば、こんな素晴らしい物はありません。

  イタリアの傘も、長い歴史があるようですね。あっしが、女だったら、パソッティのカタログを取り寄せちゃうかも。

 http://www.i-piazza.co.jp/pasotti/%E3%83%91%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3/%E5%82%98/1page.html

> いつも博識をよんで感謝です。

  いえいえ、Z さんほどではありません。

> 来週は「北イタリアの旅」という、旨いものを食う会が半蔵門であるので、助かりました。どんな料理か、楽しみです。ワインもその辺のが飲めるようで・・・。

  イタリアンワインは、シチリアなどにもあるようですが、やはり、北が有名だし、美味いですね。

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Re: 忘れ路の北イタリア~2

  Zさんから下記のコメントが寄せられました。Zさん、有難うございました。


>行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、

私はヤクルトファンな紋で、傘は大歓迎です。

いつも博識をよんで感謝です。

来週は「北イタリアの旅」という、旨いものを食う会が半蔵門であるので、助かりました。どんな料理か、楽しみです。ワインもその辺のが飲めるようで・・・。

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Re: 忘れ路の北イタリア~2

Ombrelli3


>  実に見事だった。通りの名は(あとで分かったがマッツィーニ通りだった)覚えていないが、それは50メートル以上もあっただろうか。行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、この街は自転車乗りでも有名で、歩く人と同じくらいの数の自転車が走りまわっているので、上ばかりのんびり眺めてもいられない。じつは、

写真は、その雨傘の競艶会の様子。

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忘れ路の北イタリア~2


Gsavonarola151


フェッラーラには初めて行った。あまり下調べをしなかったので何があるのか知らなかった。ところが、ここはかの有名なジローラモ・サヴォナローラの生誕の地だった。

  よくよくあっしらは、サヴォナローラに縁があるらしい。というのは、30年前初めてのカイガイで、フィレンツェを訪れたが、この時、シニョリーア広場で彼が火刑に処せられた場所を発見したからだ。

  その時はまさか、将来彼の生誕の地を訪問することがあるとは夢想だにしなかった。大体彼は罪びととして処刑されたのだし、どの本を見ても称賛しているものはないはずである。しかし、過日、渋谷のBunkamuraで「ボッティチェリとルネッサンス 〔富と美〕」展を見たとき、彼の存在価値を発見した。

  あっしらは、サヴォナローラは狂僧であると教えられていたが、果たして彼をこの一語で葬り去っていいものか。メジチ家の政治は正しかったのか。かなり乱れていたのではなかったか。やはり、社会にはある程度の節度というものが必要ではないのか。

  わが国でも、寛政のころ奢侈禁止令がでたりした。これに従わないものは幕府の容赦ない弾圧を受けた。火刑こそなかったが、歌麿の危な絵は狙い撃ちにされ、京伝などは手鎖の刑に処せられた。

  思うに、行き過ぎの面があったからだと思う。サヴォナローラだってかりそめにも修行僧だから、相当の信念をもってやったに違いない。その証拠に、「ヴィーナスの誕生」で有名なボッティチェリなどは、サヴォナローラの考えに共感し、晩年その作風を変えたと云われている。

  サヴォナローラの話はこの辺にして、次はフェッラーラの『アンブレラ祭り』について。6月の旅行で、フェッラーラを訪れた時、旧市街でなにか変ったイベントをやっているに気づき、好奇心だけは旺盛なあっしらは、さっそく見物することにした。

  実に見事だった。通りの名は(あとで分かったがマッツィーニ通りだった)覚えていないが、それは50メートル以上もあっただろうか。行けども行けど空中に赤やピンク、グリーン、青やセピア、黄色、色とりどりの雨傘が中空から吊る下がり、この下を歩くと、なにがしか開放感のようなものが味わえる。ただ、この街は自転車乗りでも有名で、歩く人と同じくらいの数の自転車が走りまわっているので、上ばかりのんびり眺めてもいられない。じつは、


  この催しは、今年の5月1日から6月の30日までで、「雨傘満開の空」と銘打って行われ、商店街の販売増進のため企画されたようだ。あっしらは期間中の6月10日にこの街を訪問した。

  これは今年だけの催しのようだが、8月には毎年ブスケルズ・フェスティヴァルというものがあり、これには外国からもミュージシアンや大道芸人が大勢集まって、あちらこちらで色々な得意技を披露したらしい。

  また、フェッラーラは、スペインから追い出されたユダヤ人を大量に受け入れた町としても知られていて、ユダヤ系の家に生まれた地元の作家、ジョルジョ・バッサーニも、そのことに触れている由。あっしも、ヒマが出来れば、バッサーニの「フィンツィ・コンティーニ家の庭」(ヴィアレッジョ賞受賞)でも、ゆっくり読んでみたい。

  あと特筆すべきはこの街には、クラウディオ・アッバードがタクトを振る交響楽団があるのだとか。

  写真は、30年前あっしが偶然に発見した、サヴォナローラ火あぶりの刑の跡を示すマンホール上の文字。 (つづく)

 

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Re: 忘れ路の北イタリア

Mさん、レス、ありがとう。みなさん、こんにちは

>   ヴェローナは一度訪れ 下記の場所の写真が有りましたので
                    アップしてみますね。
>   >「ブロンズでジュリエッタのあで姿」
>   >「その後恋の守護神、ジュリエットにあやかろうとみながみな彼女の右胸ばかり触    りまくるのでついに右だけが異常に消耗し」
>   > 2014年に2代目が作られ中庭の同じ場所に設置された
    
>     ※ 映像が ぼやけていますが (^^ゞ
>       丁度 男性が 触りに寄って来てますね (^^♪
>       この写真は 2014年3月 ですから 像は 新&旧 ??

>       建物の壁に格子の柵があり 小さい「鍵」が沢山掛けられています
>       「恋結び」の願望でしょうか?

これは恐らく『愛の南京錠』とか呼ばれるもので、パリのポンデボザール橋あたりが始まりではないでしょうか。その後各国で大流行し、パリの橋では重さが全体で50トンにもなり、とうとう欄干の一部が壊れてしまいました。そこで、市当局によって、鍵をつるすことは禁止となり、その後、鍵が下げられない構造に改められたようです。

 たぶん、ヴェローナは、パリほどの観光客が集まらないのでしょう。

>       相変わらず 大勢の人で賑わっていました

>     いつも 面白く参考になる話題を 有難うございます。

 いえいえ、どういたしまして。                          

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Re: 忘れ路の北イタリア


Merasan


   Mさんから、下記のコメントを頂きました。有難うございました。


  紋次郎さん こんにちは

  ヴェローナは一度訪れ 下記の場所の写真が有りましたので
                    アップしてみますね。

  >「ブロンズでジュリエッタのあで姿」
  >「その後恋の守護神、ジュリエットにあやかろうとみながみな彼女の右胸ばかり触りまくるのでついに右だけが異常に消耗し」
  > 2014年に2代目が作られ中庭の同じ場所に設置された
    
    ※ 映像が ぼやけていますが (^^ゞ
      丁度 男性が 触りに寄って来てますね (^^♪
      この写真は 2014年3月 ですから 像は 新&旧 ??

      建物の壁に格子の柵があり 小さい「鍵」が沢山掛けられています
      「恋結び」の願望でしょうか?

      相変わらず 大勢の人で賑わっていました

    いつも 面白く参考になる話題を 有難うございます。

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Re: 忘れ路の北イタリア

Dialogo2

シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」で、一番大事なのはおそらく第2幕の第2場だろう。ここには有名なバルコニーのシーンが出て来るからだ。

 これは第2場の始まりのところで、ジュリエットの家の庭に侵入したロミオが暗がりでつぶやくことばである。

 ジュリエットの家の壁に、たしか30年前に来た時はなかったと思うが、だれかの入知恵であとから取り付けたものであろう。

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Re: 忘れ路の北イタリア

Operadigiulietta1_2


>  長くなって恐縮だが、じつは 7月にミニミニイベントを催したのだが、その際、シェイクスピアがパクったイタリアの悲話、この訳本も展示した。ここでタイトルに注目して頂きたい。「ロミオとジュリエット」ではないのだ。いつから、ジュリエットでなく、ロミオが先になったのか。 

また、この小型本でも、そのようになっていた。これは音楽出版で有名な「リコルディ」社から出たオペラのリブレットである。  

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Re: 忘れ路の北イタリア

Giulietta


>  長くなって恐縮だが、じつは 7月にミニミニイベントを催したのだが、その際、シェイクスピアがパクったイタリアの悲話、この訳本も展示した。ここでタイトルに注目して頂きたい。「ロミオとジュリエット」ではないのだ。いつから、ジュリエットでなく、ロミオが先になったのか。

  この本は稀覯本とまではいかないにしても、昭和23年発行なので、終戦直後であり、そうとう古い。ここでその表紙もお見せしよう。 
 

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忘れ路の北イタリア

Luigidaprta

  えー、お次のお支度がちょっと遅れるようですので、ご覧のようにしょぼい前座が現れまして、しばらくの間、ご機嫌をうかがうことにいたしました。ですからどなたかのお姿が見えたり、咳ばらいなぞが、ちょっとでも聞こえればすぐに失礼をいたしますです。

  演題に『忘れ路』とやりましたが、うっかり忘れ字とやるところでした。字を忘れることくらいならまだいいのですが、立ち上がった途端に、これから何をしようと思ってたったのか、まるで覚えていません。やっぱり、そのお、年は取りたくない紋ですな。(と、しみじみ云った後、ここで湯呑からお茶を少しばかり飲む)

。 (何が、「というわけ」かは、実はあっしにも、よく、わかりませんが)…….というわけで、思い出したことをぽつりぽつりと…。

  まず、イタリアはヴェローナ。最近発見したのだが、この悲恋のヒロイン、ジュリエットについては、『ジュリエットへの手紙コンクール』と云うのがあり、イギリスのサラ・ジョージ21歳というのが、栄冠を勝ち得たよし。さすが、原作者シェイクスピアの母国だけあって、筆の立つものが多いのであろう。2位はアメリカのべスというひと。

  賞をもらったのは3人で、ご褒美は古風なインク壺に鵞ペンつき。もちろん、ヴェローナへのエアチケットも。

  このコンクールへの参加は、アメリカの映画「ジュリエットへの手紙」が公開されてから大ブレイクしたらしい。

  このヴェローナは町おこしで、1938年にすでに『ジュリエットの家ミュージアム』をつくり、当時はバルコニーだけだったらしい。これだけでも、多くの観光客を呼び寄せることが出来たが、さらに同地のライオンズクラブの援護のもと、地元の彫刻家ネレオ・コスタンティーニが1969年に鑿は振るわなかったが、ブロンズでジュリエッタのあで姿を作り上げた。中庭に置いたのは1972年であった。

  その後恋の守護神、ジュリエットにあやかろうとみながみな彼女の右胸ばかり触りまくるのでついに右だけが異常に消耗し、2014年に2代目が作られ中庭の同じ場所に設置された。

  あっしらは家に入らなかったが初代は、室内に保存されている模様。

  この像を見るのに、わざわざヴェローナまで行く要はない。例えばドイツのミュンヒェンには2体ある。ひとつはマリエンプラッツの旧市庁舎の塔の足もとに、もう一つはシェイクスピア広場の公園内にある。

  他の国ではアメリカはシカゴのネイヴィー・ピア、タイのジュリエット・ラブガーデンに、ここはご丁寧にも、バルコニーつきである。また中国では、寧波(ニンポー)にあるらしい。

  ここで特筆すべきことがある。あっしらは、初代の像が当年とって13才の時に訪問し、また2代目が1才で、赤ちゃんの時に再びこの像にまみえたのである。


  長くなって恐縮だが、じつは 7月にミニミニイベントを催したのだが、その際、シェイクスピアがパクったイタリアの悲話、この訳本も展示した。ここでタイトルに注目して頂きたい。「ロミオとジュリエット」ではないのだ。いつから、ジュリエットでなく、ロミオが先になったのか。 

  大体、ジュリエットへの手紙はあっても、ロミオへの手紙はない。ロミオだって同じように死んだので、悲劇の主人公のはずだが…。これでは下手をすると、二重の悲劇になってしまう。(つづく)

 


 

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あっしは上野へ行ったついでに

Transformarmsintoart1

あっしは上野へ行ったついでに、東京芸大の美術館にも足を延ばしてみました。丁度2階で、「武器をアートにーモザンビークにおける平和構築」展という展示をやっていました。

  本職の兵隊だけでなく、少年まで駆り出された長い内戦に、こりごりしたモザンビークの人たちが、戦争終結後に残された、たくさんの危険な武器を回収する運動を起こしました。これは旧約聖書のイザヤ書のことば「剣を鍬に」に想を得た「銃を鍬に」というプロジェクトで、この運動によって、かなりの銃が鍬に変身を遂げたわけですが、今なお数百万丁の武器や地雷が未回収の状態だそうです。

  モザンビークは、現在では経済成長著しいアフリカの優等生国ではありますが、この地には、未だに多くの地雷が残されています。発見された武器は、主として爆破によって処分していますが、一部はアーチストたちによって芸術品に生まれ変わり、人々に感嘆の声を上げさせています。その作者にはクリストヴァオ・カニャヴァート、フィエル・ドス・サントス、アドリノ・セラフィム・マテなどがいます。

  藝大の会場には、21点ほどの作品がありましたが、素材を巧みに処理して、芸術性豊かな家具や、動物、ギター、キーボードなどの演奏者、本を読む人など、さまざまな形が作り出されていますが、武器の一部を、平和的なものに変身させる、かれらアーチスチトの技術には、ほんとうに見ていて感心させられます。入場は無料で、会期は来月の23日(月・祝)まであります。さて、


  モザンビークは遠い国のように思われていますが、イエズス会の宣教師の口利きで信長に仕えた、弥助として知られていた人物は、モザンビークの出身だったそうです。また、愛媛県の「えひめグローバルネットワーク」と云う団体が、その趣旨に賛同して、わが国の放置自転車を、修理して同国に送るなどして、モザンビークの平和に協力している由です。

  この展示の主催者のひとつである、国立民族学博物館の所蔵品「いのちの輪だち」は、カニャヴァートやサントス、その助手のコラボで作られ、この展覧会場にも出展されています。  (おわり)

  添付写真。クリストヴァオ・カニャヴァート作の「笛を吹く人」。

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モネ展は大繁盛~3

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あっしも、モネは日本びいきなので、その点が気に入ったところもないわけではないが、やはりあの、睡蓮へのこだわりと云うか、異常なまでの執念(その数およそ、200点)に惹かれるのだ。

 そして、この展覧会で初めて知ったのは、あの華麗な画面が出来る前、かれは、何とカリカチュアを描いていたというのだ。そして、もし、ウジェーヌ・ブーダンの誘いがなかったら、一生戯画を描いて終わっていたかもしれない。

 やはり、画家には、大なり小なりの変貌が必要なのかも。たとえ、ピカソほどではなくても。

 今までモネについての生半可な知識しか無かったあっしは、今回都立美術館で、かれのカリカチュア作品に接したときほど、オドロイタことはない。ところで、


 自分の住まっている街で、倉敷で、パリで、モネを何度か観たあっしも、これは見ていなかったという作品群、いや、というより、逆にこれだけは、もう痛々しくて、とても見ていられない、むしろ見たくなかった作品群が、最後の最後に、あっしらを待ち受けていた。


 それは、最晩年にモネが白内障に苦しみながらも、なお絵筆を捨てず、描き続けた、愛して止まなかった、そのジヴェルニーの自邸の庭の風景。目が見えないので、カタチは取れているのに、色使いが滅茶滅茶で、とても正視に堪えない。ウィッキーでは『抽象画』と云うが、あっしには、そうは思えない。

 たとえば、「日本の橋」は、ただの赤い橋になっている。私事だが、母は晩年、赤しか識別できなかった。街で赤信号を見ると、しきりに「赤い、赤い」と云ったが、他の色にはマッタク反応しなかった。


 画家に対する最大の刑罰、最大の不幸だ、目の見えないということは。自分でそれを分かっていながら、決して筆を折ろうとしなかったモネの姿には、しかし、神々しささえ感じられる。これこそ、真の芸術家の魂ではないだろうか。これらの絵の前に立った時、

 あっしは深い感動に包まれ、思わず心中で、嗚咽せざるを得なかった。モネを見に来てよかった。他のどんな展覧会を見るより、モネに会いに行ってほんとうに良かったと、心に刻みこみ、後ろ髪を引かれるような思いで、上野公園を後にした。これは、去る10月21日のことである。(おわり)

 写真は交友のあったルノアールによるモネの、ごく自然な日常を描いた肖像画である。

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モネ展は大繁盛~2

Monetexpo

昨今は、美術展も数多く、相当宣伝をしないと大勢の観覧者を獲得することはできないようだ。そこで、大勢に来て貰おうと思えば、それなりの工夫がいる。そこで、各地にばらまくチラシなどにも、本腰を入れて知恵を絞ることになる。中には、かなり奇抜な方法も飛び出してくる。

  ふつう、こうしたチラシはA4タイプのものが多い。今回は丸を縦に三つつなげた、串なし団子三兄弟のような栞もあった。これは明らかに、モネを所蔵するパリの美術館、マルモッタンをイメージしたものに間違いない。いわばおやじギャグみたいな紋である。丸を並べてマルモッタンねえ。なある、というわけだ。

  そういえば、以前にもマルモッタンが来た時、これに似たオヤジギャグのようなものがあったような気がする。たしか、○の下だか、中にモッタンとか、書いてあったように記憶する。とにかく、「マルモッタン」を覚えてもらおう、そこまで来ればまず、観覧者の予備軍は確実、といった館側の意図が、このことから窺がえる。

  モネ展で、都立美術館の館内に入って、あっしの気の付いたことは、主催者側が、いかにモネ展に力を入れているかということだ。というのは、あっしが長い行列で、つのるイライラを何とか紛らわそうと、神経質そうに館内を見回すと、モネ展のポスターがすぐ目に入ったが、これが4,5枚まとめて貼ってあったのだ。

  ところが、その図柄がすべて違っている。あっしの入手したチラシは、有名な「睡蓮」だが、館内には、印象派という言葉のもとになった「印象、日の出」、「サンラザール駅」、そのほかがあった。


  ポスターには、いわゆる売り言葉が書いてあるが、これがまた読んでみると、なかなかに面白い。

  「睡蓮」には、

  「睡蓮」、画家が最期まで手放さなかった一枚。

  どうっす、簡にして要を得ているではありませんか。最後ではない、最期ですぞ!

  そのあと。「印象、日の出」から「睡蓮」まで  と来た。

  いずれもモネの代表作である。もう一枚のには、

  「印象、日の出」、21年ぶりの東京。

  じつにウマい紋だと思います。
 
 ところが、この2枚を観覧者が、一遍にみるのは難しい。あっしのばやい、10月21日に行った。「印象、日の出」は残念ながら、18日までである。ま、早いはなし、上野に、二度あしを運べば紋題はないのだが…。(^^♪

  「サンラザール駅」のには、「サン=ラザール駅」、これを見ずには終われない。

とある、これを見た途端に、心臓まひで、自分自身が終わってしまっても困るが、あっしは終わる前に見れて、えがった、えがった。(つづく)

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モネ展は大繁盛

実はあっしは、モネについては、先年パリのオランジュリーで、あの高さ2メートル、長さ12メートルもある、モネの『睡蓮』を、現地で満喫して来たので、一応は済みになっているのだが、それだけに余計懐かしく、もう一度じっくり観たいと思った。地元の美術館にも、モネが一枚あって、行くと必ず挨拶することにしている。

  この21日は、入場料が老人無料のため、忘れないように、何か月も前から、カレンダーに大きな印をつけ、楽しみにしていた。

  きのうは、もっと早く出たかったが、なかなか思いに任せず、上野の美術館についたのはお昼頃になってしまった。

 予想通り長蛇の列で、立て看板に、『一時間待ち』とある。この美術館は、入口が地下にあって、まずエスカレータで下へ降りるのだが、券のあるなしにかかわらず、この列に並ばなければならぬ。

  以前、場所も同じ上野の、国立博物館で、金印を見るのに、さむい屋外で、しかも小雨の降る中で、長いこと並ばせられ、震え上がったことがある。

  エスカレータで降りても、列はなかなか短くなってくれない。ふと気が付くと、すぐ脇に、あっしらと反対向きの列があった。ひやあ、目の前に展示室の表示があるが、そこが入り口ではなく、列は蛇行していたのだ。

  並び仲間のおしゃべりを、聞くとはなしに聞きながら、忍耐強く待つ。これは正に、初もうでの明治神宮の風景だ。


  「はいそれでは、この線まで、はい、ここまでお進みください。もしもし、あっ、ダメダメ、ダメだなあ。ここまでですよ。」警官の声がいまだに耳に残っている。

  丁度そのとき、往年のヒット曲「待つわ」が流れたと思ったが、これはあっしの錯覚だった。(^_-)-☆歌手のあみんは、「待つわ いつまでも待つわ」と歌うが、いくらあっしらのように、年中ヒマそうに見える老人でも「私待つわ」と云いつつ、いつまでも待つわけには行かないのだ。

  しかし、いかに老齢化時代とはいえ、これだけ65歳以上のひとが、いや、その中でも絵画の愛好者がいることには正直オドロク。(@_@;)もっとも、ヒマであることも一因なら、印象派のファン、さらに日本にはモネのファンの多いことも、大きな要因の一つであろう。また、モネ自身も自宅の庭に、日本風の太鼓橋をつくったり、浮世絵をあつめたり。かなり重症の日本ファンであったことなども、今では日本中に知れ渡っているのかも知れない。(つづく)

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~3


Minibottle1

それから、南口の方に行った時、ヒマなので、また、地理不案内なので、あちこち歩き回ったが、裏通りで、地元の人びとが、ほとんど全員と云っていいほど大勢、色々な小店を出していて、これはほんとうに面白かった。ほんの間口1間くらいの店が軒を連ねているのだ。

  ほとんど買わずに冷やかして歩いたが、写真のこれは気にいった。プラスティック製で非常に小さい、いわばミニボトルだが、なにかの景品で作ったのかも知れない。

  大きく書いてあるのはフランス語で、乾杯する時の言葉。あなたの健康を祝っての意。ところが後はみな、日本語。かっこの中はobentozukurino puro、年号の下は英語でwater bottleだが、その下はitsumo tanoshii obentou.minnade waiwai shiyoune.hi-sense

マークの中にも、obentouがある。細かく見ると、ローマ字のところにフランス語のアクセント記号を使って、高級感?を出したりしているところもご愛嬌か。お弁当については、そのローマ字がobentouになったり、obentoになったりしている。

  このボトルはなかなかのスグレ紋で、上の部分に水や酒、ワインなどを入れられるし、ラベルの下がひねると、外れてコップになることだ。値段は驚くほど安く、たったの100円だった。


  行きに見かけた「西荻ビール工房」へも、忘れず立ち寄り、地ビールも買って帰った。帰りは中央線で人身事故に巻き込まれ、時間が掛かったが何とか切り抜けそれほど晩くない時間に帰宅できた。(おわり)
 

  (つけたり) 一番可笑しいのは、今回の探訪で、唯一見つけられなかったのは、駅の近くにあるはずの「西荻案内所」」だったこと。←案内所ってふつう、一番先に行くとこでしょ。

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突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~3

今まで紹介したところは、いわゆる南口というところで、あっしは、南だけでなく、北口の方にも足を延ばしたのです。

  別に買うあてはなかったのですが、北東方面に「Midi」と云う店があり、そこは南フランスの古道具を商うと書いてあったので、チョット興味が湧いてきたのですが、地図で見ると、なにか遠そうなので、止めにしました。住所も西荻と云うより善福寺になっていました。


  それでも、最後に入った店、「古本倶楽部・中野書店」というのは、女ばかりでやっているがなかなかバカにできない。相当力のある古書店と見た。入口のあたりにおもちゃが置いてあったが、値段を聞いてビックリした。古い、アメリカ製と云うくらいで、大して珍しくも無いような代物だったが、なんと、8000円以上だった。

  この店に離接するスペースで、やはり古書を並べていた。あっしはここで、一番安いのを1冊だけ買った。周囲にはあまり店もなく、人通りも少なかったので、販売は主としてネットを通してやっているのだろうと思った。この辺りは、北銀座通りというらしい。

  あっしは、やはり北口だが、伏見通りと云うのも探検した。駅の近くでは「TIMELESS」と云う古書店、若い男が座っていたが、なかなかいい本を揃えていた。本以外にも小物を並べていた。近頃、場所を取らないので、本より小物に目が行く。

  同じ通りで「FALL」と云う店も小物をならべていて、店内は若い女が目立った。伏見通りを右に折れて少し行くと、骨董通りに入る。ここはその名の通り、骨董屋が多い。そこらを適当に冷やかしながら進むと道は大きな通りにぶつかる。右は地蔵坂、左は女子大通りである。その地蔵坂に「井荻会館」と云うのがある。

  「井荻会館」はあっしと同じくらい古く、西荻町の自慢である。地元では古民家と云っている。してみると、あっしは古民間人なのかな。(^O^)ここで年2回、骨董市が開かれ、あっしも行ったのだが、もう終わりに近く、ろくろく観ずに帰った。その途中にあった古書店、「花鳥風月」は、珍しいものも多く、これも印象に残った。

  昼は駅前の中華「日高屋」、夕食も中華で「ちょもらんま」という店で食べたが、ここは分量もあり、また味も悪くなかった。(つづく)


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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~2

Penishiogi

  そこで、いつものように、良く調べもせず闇雲に歩き出したのだが、少し行くと、道路の左手になにか骨董屋のような店を発見。屋号は「アンティーク時」というのだそうな。さっそく入ってみると、あるわあるわ、サントリーの『アンクルトリス』がらみの品々が。


  おっ、これはスゴイと、自身骨董品に近く、売り物の骨董品には特別の親近感を抱くあっしこと、唐辛子紋次郎は、注意深く陳列棚に近づいた。


  う~ん、さすが柳原良平だ。紋次郎の財布では、とても歯が立たない。例の「洋酒マメ天国」が36冊(箱入り全巻揃い)で、あっしの方に盛んに流し目を送って来る。しかし、35000円では、いくら色仕掛けで来ても、とても無理だ。後で調べると、このあたりが、通り相場のようだ。

   ほかに、グラスやコースターなど、いろいろあったが、一点で3000円を下回るものは何一つなかった。で、ここは見学だけにして、店頭の唐辛子をあしらった小皿を、一枚だけ買って早々に店を出た。


 その向かいは、盛林堂書房という古書店で、『まち歩きマップ』によれば、創業66年の老舗だ。店主はわりと若いようだが、かなり自信家に見える。

 中々のやり手らしく、書籍の販売だけでなく、出版までも手掛けているらしい。ここでは、比較的安い豆本の類を2冊ほど。古本好きの紋次郎は、この店なら、また来てもいいな、と思った。

 あっしはどうも生まれついての方向音痴らしく、もともと井荻会館というところで、年にたった2度だけ開かれるという骨董市というものに、行きたくてこの『旅』を思い立ったのに、その反対の方角へ行ってしまったらしく、なかなか目的地へは辿り着けなかった。そのお蔭で、小さい発見もまあ、いくらかはあった。たとえば、駅前の「ぺぱむら」と云う店。工作用の紙製品を扱っているが、若い女の客も多い。ぺぱ、はおそらく、ペイパーの『ぺ』であろう。

 「ムラ」は小さな店なので、村と洒落たか、あるいは、苗字が村井とか村上あたりで、そう付けたのかも知れぬ。(つづく)


 

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~2

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>  これは「こけし屋」の、小型パンフレットにみる、信太郎さんの絵である。

 どういうわけか、ちかごろ、何か書くというと、その後に、かならず僅かのインターバルを置いて、それに関連したものが立ち現れて来るのだ。ただ困るのは、すぐ出てこないことで、いい加減トウの立ったころに、ひょっくりと現れるのが、あっしには気にいらない。というのは、つまり

 この鈴木信太郎と云う絵描きのことだが、きのう上野の美術館でゲットした、何枚かのパンフレットのなかに、この画家の展覧会(横浜の「そごう美術館」。会期が10月10日から11月15日までになっていた)のものがあったのだ。べつにこちらで要求したわけではなく、マッタクの偶然なのだ。

 フシギと云うか、何というか。

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~2

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  鈴木信太郎さんは偉いですね。病気で左半身が思うように動かなくなったというのに、ひたすら画業に専念、ついに日本芸術院会員になり、また勳三等の勲章や、文化功労章まで手にするという、この精進ぶりはただ、スゴイとしか、云いようがない。

  これは同店の小型パンフレットにみる、信太郎さんの絵。

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~2

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中央線沿線には一時、文士や画家が集まり大いに栄えた時代があった。この辺に住むものが、とくに多かったせいであろう。その一人、井伏鱒二は「荻窪風土記」を書き残している。

  彼らは集まると、将棋やマージャンに打ち興じた。西荻に「こけし屋」が出来ると、こけし屋は、現在のカルチャーセンター化し、集まった近所のひと達に講義をしたりもしたようだ。しかし、彼ら文士や画家の、主たる目的は、ここで飲み食いをすることだったと思う。

  ここには、錚々たる連中が集まったらしい。「こけし屋」のHPによると、文士や画家が数多く「こけし屋」に集まり「カルヴァドスの会」と云うのを立ち上げている。初代会長は有名な石黒敬七氏。

  会の名は、映画「凱旋門」のなかで、バーグマンが飲むお酒の名前から来ている。旗挙げでは他に、井伏鱒二や徳川夢声、東郷青児、それに、のらくろの田河水泡までいたらしい。ほかに会社重役、商店主なども、駆け付けたようだ。作家の上林暁というのは、当時阿佐ヶ谷に住んでいた。また、ドイツ文学の高橋健二さんが絵を描き、それが今も残っていたのにはビックリ。

  2代目会長は新宿の主のような、あの紀伊国屋書店社長の田辺茂一だったという。このカルヴァドスの前身に「こけし会」というのがあったそうだ。ここでも、向学心に燃える主婦や学生などを相手に、一流の先生方の講義が行われた。たとえば、「こけし屋」の畳敷きの教室で☆、金田一京助先生の「アイヌ文学の発見」の講義があったときは、満員札留めの(^^♪盛況であったとか。


  常連の画家、鈴木信太郎氏の描いた包装紙の絵が、今でも、同店の店頭に掲げられる赤い幟、パンフレットや包み紙、ペイパーバッグなどで大活躍しているのは、嬉しい限りである。(つづく)

  ☆ 今は無い。


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以前、福島県のキャッチコピーで「うつくしま、ふくしま」というのがあり、しばらく感心していたことがあるが、杉並区のキーワードは「なみじゃない、杉並!」というのだそうで、区の広報「すぎなみ」にも、そのように書いてあった。

このコピーを考え出したのは、眞木準というライターで、この人は全日空、キャノン、サントリー、伊勢丹、資生堂など一流企業のコピーを数多く手掛けている。だが、2009年6月、惜しくも60歳でこの世を去っている。

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突然ですが、紋次郎が西荻に現れました~2

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チョット気になるのは、この街には新興宗教の空気が濃厚に漂っていることだ。誰一人知らない者のない、悪名高き「オウム」、色々な話題であっしらを存分に愉しませてくれた「幸福の科学」など、いろいろな実話、伝説が底流に犇めいている。しかし、現在はそうしたものは、外来者にはマッタク感じられない。

  おそらく、住民についても、今では、根っからの西荻マンは大分減っているのかも知れない。他県からの流入者が、むしろ西荻を活性化しているとも云える。それは、駅や、商店の店頭に置かれた数種類のチラシにも、表れている。たとえば、駅コンコースに置かれた「西荻まち歩きマップ2015」を広げてみると、裏は商店の名簿になっている。これが、ざっと見渡しただけでも、200店舗以上あり、まず、この数にオドロク。それから、屋号には奇抜なものが多い。

  古書店で「古書西荻モンガ堂」とは何だ。モンガは紋が、なのか、はたまた紋賀なのか。それから「のるぶりんか」たあ何だ。「とりとり」は何を商っているのか。「blue water flowers]という、ミステリー作家でも、思わず首をかしげたくなるような謎めいた名の店もある。

 「ハナトオカシト」という、何となく分かったような気分にさせてくれる、多角経営の店もある。むかしのヨロズヤ的発想にも似ているが、危険分散の意味もあってか、総じてこの辺りでは、多角経営の店が多い。また、

  つい笑ってしまうようなのもある。いわく「ぐーちょきパン屋」などは、どうか。「文具と雑貨の店トナリノ」と云う屋号があるかと思えば、「食とセラピーていねいに」という店もある。あっしは、まだ探検していないが「ニヒル牛」なんという、思わせぶりな名もある。

  後で思ったのは、この街にローマ字や英語、平仮名などがあふれているのは、外国人経営の店の多いせいもあるようだ。あっしらの街でも、近頃は、インド系の人たちの働く店が増えつつあるが、この街はその点、ハンパではない。


  ざっと見たところ、チベット、ブラジル、南仏、イタリアン、ターキッシュ、タイ、ベトナム、モロッコなど、世界中の文化が、そこかしこで花開いている。ここはまさに、国際都市。西の「新大久保」といっても過言ではない。もちろん、昔ながらの、蕎麦屋、和菓子屋、茶屋も健在である。(つづく)

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました

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>  ここの説明板にもあるように、西荻には、この方の作品がここを含め6か所に点在しているそうです。生憎あっしは、時間がなく六童子めぐりはあきらめました。また機会があればと思っています。

  西荻駅前に置かれた、六童子めぐりの案内板です。

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました

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猫の額だのなんだのと、すぐ言い訳をしますが、狭い土地でも、少しばかりの花があれば、こんなにも、明るい感じになるんですねえ。

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました

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これは、象の像を前から見たところです。

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Re: 突然ですが、紋次郎が西荻に現れました

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もう一つ、駅のすぐそばに、小さなスペースの花壇があり、そこに籔内佐斗司という彫刻家の、象がテーマの作品「花の童子」があります。

あっしは、とくに彫刻には疎く、この方のことはマッタク知りませんでしたが、藝大出で、著作もある有名な方のようです。

 ここの説明板にもあるように、西荻には、この方の作品がここを含め6か所に点在しているそうです。生憎あっしは、時間がなく六童子めぐりはあきらめました。また機会があればと思っています。


この象は、可愛い童子を載せていますが、ハリボテの方は頭にピンクのベレーを載せています。この『ピンク象』の裏話も面白いです。製作者に理由を聞くと、生憎その時、ピンクと白のペンキしかなかったもんで、答えたというのです。(つづく)

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突然ですが、紋次郎が西荻に現れました

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なんで西荻なんぞに、そう云ったつまらないことはこの際、聞かないで下さい。(^^♪

 ただ。行きたかったからです。(^O^)

  西荻といってもご存じのない方へ。西荻は西荻窪の略で、東京都杉並区にあります。JRの駅でいうと、中野、高円寺、阿佐ヶ谷,荻窪の次が西荻窪です。小さい町なので、土日などよく気を付けてないと、急行電車は通り越してしまいます。


  阿佐ヶ谷の駅付近では、天祖神社、小学校や相沢さんの森だとかに、過去のかすかな痕跡も見出すことが出来ますが、後はあまりにも変わりすぎて、あっしらにとっては、まるで別の国にでも来たようです。 

  ま、子供のころ、この辺りを遊び場にし、昔を知る者にとっては、まるで変ってしまったので正直ガッカリはします。しかし、いたずらに過去の残像ばかりを追い求めても、あまり意味のない話です。時の流れに自らを合わせるより、これは致し方がないのです。

  運よくこの日は雨も降らず、ぶらぶら歩きにはピッタシでした。さて、駅の北口方面に行くか、南口方面に行くか。ま、どちらから始めても大して変りはないでしょう。駅を出ると、すぐそばに着ぐるみを見つけました。この頃は、地名の後に、〇〇市などとおまけががつかない、比較的小さな街でも、町おこしのためか、競って、こういうものを作るようです。

  西荻のばあい、キャラクターの名前は、『にしぞう』君と云うのだそうです。なぜ、象なのかは分かりませんでしたが、にしは、間違いなく、西荻の西でしょう。また、

  象というのは、大きくて、愛嬌があり、子どもにも愛され、また、つかみどころがない所が、良かったのかも知れません。あとでネットで調べてみると、この街では恒例の秋祭りなどの必需品、あのお神輿がなかったので、象を神輿代わりにしたのが、始まりだそうです。神輿では、その製作に莫大なお金が掛かりますが、ハリボテの象ならお安い紋です。で、まず、にしぞう君の紹介。(つづく)


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