« November 2015 | Main | January 2016 »

Re: 『かかわり本』番外編

  愛読者のGさんから、下記のコメントを頂きました。大感謝!

紋次郎さん、こんばんは、

>  超ご多忙の中、丁寧なコメント、ほんとうに有難うございました。 

 私こそ、読んでいただいて感謝です。

> > この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)大杉栄に接近していったのは、
> > 必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。
> > 結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。

>  もしかして、これって、辻順ではなく、辻潤ではありませんか。

その通りです。 辻順 → 辻潤 の間違いです。

>ところで、
> ウィッキー日本版の解説ではただ、翻訳家、思想家と切り捨てていますが英語版では、作家、詩人、エッセイスト、劇作家、翻訳家、ダダイスト、虚無主義者、美食家、尺八奏者、俳優、フェミニスト、ボヘミアン(浮浪者?)と随分詳しいですね。

思想家ですから、一言で言えば、ダダイストというのでいいのではないでしょうか。
他の諸々は、それを表現する手段ということになりそうです。全集を見れば、翻訳
が多いようです。

>  辻潤と云う人物。最後には、仏教にまで救いを求めるに至っては、しょうじき、支離滅裂というか、あっしには、理解不能の人物ですね。

思想家ですから、宗教もその一部なんではないでしょうか。

ダダイズムは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A0
で大体分かりますね。

1910年代、すなわち第一次大戦時代、日本では大正時代。つまり、大正
デモクラシーの時代とオーバーラップしています。

この時期は、激動の時代で、色々な思想が流行しています。その中で、どの
ような思潮に関心を持つかは人それぞれなんでしょう。

時代批判として、戦争に対する抵抗と虚無思想。彼がとらわれたのはこの方向
のようです。そして、この方向でも、抵抗ではなく、虚無思想に傾いていった
と思われます。抵抗が強まれば無政府主義とかに向かうのでしょうか。
ただ、精神の自由の確保という点は重要なポイントであったと思われます。

しかし、時代は、関東大震災や世界恐慌など、急速に悪化していきます。
この中で、大正デモクラシーも抑圧され逼塞していきます。虚無思想も
生きて行きにくいでしょう。ならば正面から向き合うか、それも彼には
選択に入らなかったのかも。

伊藤野枝は、極めてアクティブな女性です。社会を変える(女性の解放)を
進めることに関心があります。辻潤から大杉に気持ちが移ったというのは、
ありえます。そして、この気持ちを辻潤は認めてやった訳ですが、心安ら
かであったとは思えません。

こうしたことが辻潤の精神を狂わせていったと思われるのですがどうでし
ょうか。時々半狂乱状態になり、最後は孤独な餓死でした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 『かかわり本』番外編

Gさん、こんばんは。

  超ご多忙の中、丁寧なコメント、ほんとうに有難うございました。 


> この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)大杉栄に接近していったのは、
> 必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。
> 結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。


 もしかして、これって、辻順ではなく、辻潤ではありませんか。ところで、

ウィッキー日本版の解説ではただ、翻訳家、思想家と切り捨てていますが英語版では、作家、詩人、エッセイスト、劇作家、翻訳家、ダダイスト、虚無主義者、美食家、尺八奏者、俳優、フェミニスト、ボヘミアン(浮浪者?)と随分詳しいですね。

  辻潤と云う人物。最後には、仏教にまで救いを求めるに至っては、しょうじき、支離滅裂というか、あっしには、理解不能の人物ですね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 『かかわり本』番外編

 あっしにとっての朗報。(^O^)いつも丁寧に読んで下さるGさんからまた、下記のようなコメントを頂きました、Gさん、有難うございました。


  紋次郎さんの文章は全くよどみが無く、話題は果てしなく広がって行く。あー、今日も又、道に迷ってしまった。帰り道はいずこにと探し回るばかりである。

  こういう時は、どこかとり付けそうな部分を探して、そこに食いつくに限る。全部食べようなどと決して思わないこと。食べれば、この小さな銀杏じゃなかった、胃腸では、きっと消化を起こす。という訳で。

>  また、おっかない女、神近市子さんのはなしも面白い。市子はもと、社会主義者の大杉栄の愛人だったが、大杉が心変わりをして、神近から伊藤野枝を愛し始めたことから、激高して大杉を刺し、2年間ブタ箱生活を送る。いわゆる、日蔭茶屋事件である。

  大杉栄と神近市子、伊藤野枝の関係はその通りだが、伊藤野枝とのことについて目が留まった。

  伊藤野枝については、まず青鞜社のことが挙げられる。1911年、青鞜社は平塚らいちょうらによって創刊された。1915年それを引き継いだのが、伊藤野枝。女性解放問題が生涯の課題。

  青鞜社に参加する前に、福岡糸島から上京し、上野高女に入学し、当時英語教師であった有名なダダイスト辻潤と結婚していた。子供が2人いた。

  青鞜社で頭角を現し、与謝野晶子などの、蒼々たる女性解放活動家と親交を深めて行った。

  この流れの中で、無政府主義者(アナーキスト)、大杉栄に接近していったのは、必然のことだった。神近市子と大杉を争い、壮絶な事件にまで発展した訳。結局恩師でもあった辻順と別れ大杉と結婚。

  伊藤野枝の思想は急進化していったが、それも必然。1923年、関東大震災の際に大杉と一緒にいた所を、大杉の甥の橘宗一と共に、憲兵大尉甘粕正彦に虐殺される。明らかに狙われていた。わずか28歳の無残な死に様が胸を打つ。

  実は、甥の宗一が米国籍だったために、米大使館に抗議され、政府(軍部)はおお慌て。しかし軍法会議で甘粕は死罪にはならず、満州に逃げていった。(この後、満州で元夫の辻順と甘粕大尉の再会の描写を読んだことがあるが、丸で、ピストルを抜かない決闘のような場の描写が壮絶であった。辻順は離婚しても野枝を愛して
いた。)

  静岡市葵区に野枝の墓があり、「自由恋愛の神様」となっているようです。全集も出されている。

  辻順と野枝との間の長男が辻一(つじまこと)、彼のことも語り出せばキリがない。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

『かかわり本』番外編

徳川夢声と云えば、吉川英治の「宮本武蔵」の朗読で名高い。この人がまさか、隣の街に住んでいようとは、あっしも思わなかった。吉川英治の「武蔵」が全国を制覇したのには、夢声の功績が顕著であるというひともある。

 大場通り。きのうは、小学校のクラスメートのK君に電話してみたら、さいわい家にいた。そこで、しばらく懐旧談に花を咲かせたが、井伏さんが大場(ダイバ)通りのことを「敗戦後、早稲田通りと変わり、次は日大通りとなって」と書いているのを確認すると、そんなことはない。今でも、自分たちは相変わらず、大場通りと呼んでいるというので、井伏さんのいた荻窪あたりでは、そう変わったのかも知れないが、それは一部の話で、現に住んでいるK君の住む阿佐ヶ谷では、いまだに、昔の名で呼んでいることが分かった。また、

 井伏さんは、骨董趣味のことをよく書くが、骨董に関しては、いまは西荻窪の方が阿佐ヶ谷や荻窪より盛んな気がする。西荻など、歩いてみると、事実骨董屋が多いし、骨董祭りなども定期的に催している。

 しかし、当時は青柳さんだけでなく、蔵原伸二郎だの、光成信男、著者の井伏さんなんかも釣られて、骨董品を見て歩いたらしい。ただ、骨董屋の場所、名前なぞが書いてないのは残念だ。はなし変わるが、

 子供の頃の便所は汲み取り式で、オワイ屋さんという人たちが、各戸を回って便所の汲み取りをしていた。肥え桶一杯を一荷と呼び、きょうは多かったので、2荷分頂きますとか云われて、代金を払っていたような気がする。その時、桶に宇田川とか筆字で書いてあった。

 井伏さんの「風土記」では、人糞の入った木製の肥え桶の話は出て来るが、それらを載せた大八車を押す「立ちん坊」の賃料のことしか出ていない。大八車にはその後、改良が加えられ立ちん坊の手を借りなくても、険しい坂を上がれるようになったとか。

 巻頭に、長谷川弥次郎という古老が出て来る。著者はこの人が「敗戦の年まで天沼の地主宇田川さんの小作であった」と書いている。またその先にも、「宇田川の荻窪田圃で麦を作り」と云うのが出て来る。この宇田川さんという人が恐らく、汲み取り人などを取り仕切っていたのではないだろうか。K君もたしか、そうだろうと云って、相槌を打っていた。


  関東大震災。この実見記は非常に貴重だ。「阿佐ヶ谷駅はホームが崩れて駅舎が潰れていた。」そんな話は一度も親父から聞いたことがなかった。荻窪駅は、大して被害がなかったようだ。当日の未明には土砂降りの雨が降ったことを記している。井伏さんは、後日の記録にある「この日は空が抜けるほど青く、蒸し暑い朝」だったという記事に異議を唱えている。この時の「雨脚の太さはステッキほどの太さがあるかというようで」といってあるので、余程強い雨だったのだろう。又たとえに「南洋で降るスコール」を挙げている。また、


 また、おっかない女、神近市子さんのはなしも面白い。市子はもと、社会主義者の大杉栄の愛人だったが、大杉が心変わりをして、神近から伊藤野枝を愛し始めたことから、激高して大杉を刺し、2年間ブタ箱生活を送る。いわゆる、日蔭茶屋事件である。

 文藝春秋社の出していた「文藝手帳」に左翼の闘士、神近女史の住所が鱒二と同じに記載されていたことから、警察が井伏さんに疑惑の目を向け始めた。もともとは、女史が出鱈目の住所を届けたことが原因で、無実の井伏さんは、二度までも警察に尋問され、大迷惑を蒙った。

 そのやり取りが、仔細に記録されている。一回目は「あなたと神近さんとは、どういう御関係ですか」に始まって、「住所が、下井草一八一〇番と言われるのは、どういうわけでしょうか」、「市子さんは、かつてお宅に下宿されていたことがありますか」「あなたか、またはあなたの友人が、神近市子さんと個人的にお知合いですか」

 二回目は「お宅に寄寓されていたことがありますか」「お宅の御主人が、神近市子さんのお宅に寄寓されていたことがありますか」「お宅のご主人が、神近市子さんのお宅に寄寓されていたことがありますか」「では、お宅のご主人のお父さんが、神近市子さんと同棲されていたことがありますか」「お宅の御主人は、かつて神近さんと同棲されていたことがありますか」うっせい、いつまでやってんだ、この野郎。とでも、怒鳴りたくなるしつこさ。二回目は井伏さんの夫人への尋問であった。

 神近市子はおっかないので、世間から、『噛み付き市子』とあだ名されていたらしいが、飛んだ迷惑人間である。さて、

 大地主では玉野さんと云うのもいた。とは、K君の発言で、これは井伏さんの「風土記」にも出ていて、完全に符合する。ここで興味深いのは、旧幕時代の話。このあたりで領主をしていた今川氏が当時『窓税』なるものを課していたらしい。なかなか、強かである。領民は堪らず、窓を塗りつぶして対抗した。ところが、先方はさらにうわ手で、今度は『窓塞ぎ税』をひねり出したという。こうなると、領民も、もう打つ手がない。

 「風土記」での、二・二六事件の記述を読むと、証言が錯綜して、デマの発生する舞台が見事に活写されている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本~6


 Gさんから、『改めて全文を読んで』という題で、下記のコメントを頂きました。ほんとうに有難うございました。

井伏鱒二の「荻窪風土記」にからむ一連の文章を全部一気に読み直してみた。

面白いですね。途中ではなかなか口を出しにくく(一体どう進んでどう落ちが付くか分からない)、全部読んではじめて分かるものであることを実感した。もっとも、途中で、レスしたいことがいくつかあったのだが、メモを取ってないので、結局忘れてしまった。それらをまとめて最後に並べるのも趣を欠くし。

読ませていただいてありがとうございました。ほんとに面白かった。お疲れさまでした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本~6

1

>  井伏さんは、荻窪に、自分の家を新築することに決め、それが出来上がるまで平野屋という酒屋に、一時下宿することにした。じつはこの建築で、ひと騒動あるのだが、ここでは、それは省略する。著者は、当時の荻窪の地理的状況を説明する。名前は書いていないが、ある原っぱを造成して、立派な邸宅の出来た話が、そこに出て来る。その邸宅こそ、何を隠そう。大政翼賛会副総裁、のちに内務大臣にまでなった、畏れ多くも(^_-)-☆、安藤紀三郎の住まいであった。なぜ、こんなことを書くかと云えば、ここは「現在、東信閣という三階建てのビルになって」という箇所を読んで、パッと閃いたことがあったからだ。

>  実は、平成17年5月、あっしらは、荻窪の、名前も同じ「東信閣」というところで(杉並第一)小学校昭和18年卒業組の、同窓会をやったのを思い出したからである。で、当時の自作ヴィデオを取りだしてみると、まず間違いなく同じ建物らしい。幹事のK君にも、すでに確認済みである。

紋次郎が21世紀最大の発見と豪語する(^O^)「東信閣」の写真がやっと、見つかったので添付します。これこそ、悪名高き大政翼賛会で大活躍し、あっしら臣民にデタラメ情報を流し続けた元凶、安藤紀三郎の住まいの成れの果てであります。

 「東信閣」は現在も盛業中のことと思います。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった』本~6

  「風土記」は何度読んでも、その都度、懐かしさの込み上げて来る本だ。あっしらが毎日何気なくその前を通って小学校に通っていた『天祖神社』の名前が出て来ると、たちまち境内で行われた縁日の夜の賑わいが、はっきりと、わが耳に聴こえてくるのだ。また、

  『ラッパの森』ということばに出会うと、軍事訓練が終わって、嚠喨たるラッパの音が,辺り一面に鳴り響き、この森でしばし休憩を取る習慣のあった、若い兵隊さん達の軍服姿が、ありありとあっしには、見えて来るのだ。「小休止っ!」という、上官の張りのある声とともに。

 肝心の阿佐ヶ谷と云う地名。これは、この地に勢力を張っていた阿佐ヶ谷氏に因むものだそうだ。

  また、この地は日本武尊が、休息を取られた地でもあり、江戸時代には神明宮と呼ばれた。あっしらには、当時の通称、天祖神社の方が一層懐かしく思われるが、現在ではさらに古い江戸時代の「神明宮」という呼称に戻されているようだ。それから、この近くに、作家の横光利一さんが住まっていたというのも、あっしは知らなかった。

  また、世界的な版画家であった棟方志功が、20年以上も荻窪に住んでいたのに、井伏さんの本には、全然出てこないのは非常に残念だ。というのは、井伏さんは絵を描くのが好きで、早稲田の学生の頃から画塾に通ったりしている。また、荻窪でも、ちいさな美術サークルへ入り、「風土記」を読むと、静物だけでなく、裸婦のデッサンまでやっていたことが、記されているからだ。それから、

  楽屋話ではないが、青柳瑞穂さんの骨董に対する態度もくわしく述べられていて実に面白い。阿佐ヶ谷文士村は、総じて仲良しクラブと云ってよいようだが、青柳さんと田畑さんが一時不和になり、外村さんが心配して、いろいろやったらしいが、到頭修復には成功しなかったとか。本人は真剣でも、これは趣味の問題なので、青柳さんが、やたらと腹を立てるのも大人げない気もする。とにかく、青柳さんは怒り心頭に発して、田畑さんの小説にまで、ケチをつけたという。

  「向こう三軒両隣」などでも有名な伊馬春部が、今の天沼三丁目辺りが舞台の「桐の木横丁」を新宿のムーラン・ルージュで上演して、大成功を収めたことも書いている。当時、新開地の荻窪あたりでは、家主が貸家に、一株ずつ桐の木を植えたとあるが、あっしは、阿佐ヶ谷駅付近でも、桐の木が何本か、植わっていたように記憶している。

   いま、杉並区のHPを見ると、阿佐ヶ谷に『阿佐谷図書館』というのがあり、そこに『阿佐谷文士村コーナー』というものがあるらしい。もし何かの用事で、阿佐ヶ谷にでも行く機会があれば、ちょこっとそこへ、寄ってみたいような気もする。図書館の場所は、むかし「第九」と略称していた、杉並第九小学校の近くらしい。このコーナーをうろちょろしていれば、なにか又、小さな発見があるかも知れない。  (おわり)


 (つけたり)著者の井伏さんが『平野屋酒店』という項に書いている、荻窪の「東信閣」について。

  井伏さんは、荻窪に、自分の家を新築することに決め、それが出来上がるまで平野屋という酒屋に、一時下宿することにした。じつはこの建築で、ひと騒動あるのだが、ここでは、それは省略する。著者は、当時の荻窪の地理的状況を説明する。名前は書いていないが、ある原っぱを造成して、立派な邸宅の出来た話が、そこに出て来る。その邸宅こそ、何を隠そう。大政翼賛会副総裁、のちに内務大臣にまでなった、畏れ多くも(^_-)-☆、安藤紀三郎の住まいであった。なぜ、こんなことを書くかと云えば、ここは「現在、東信閣という三階建てのビルになって」という箇所を読んで、パッと閃いたことがあったからだ。

  実は、平成17年5月、あっしらは、荻窪の、名前も同じ「東信閣」というところで(杉並第一)小学校昭和18年卒業組の、同窓会をやったのを思い出したからである。で、当時の自作ヴィデオを取りだしてみると、まず間違いなく同じ建物らしい。幹事のK君にも、すでに確認済みである。

  我ながら、コロンブスのアメリカ発見以来の大発見だと、ひそかに鼻を高くしている。(^O^)


| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった』本~5

この稿もいつの間にか、第5回目になってしまったが、もうすこしつづく。

 あっしらの生まれたころは、阿佐ヶ谷などは大田舎で、住所も東京府豊多摩郡杉並町であった。しかも、今でも忘れていないが、あっしらの住んでいたところは、大字(オオアザ)小山(コヤマ)だった。

 「風土記」の『あとがき』に、小山清との関連で、昭和四十一年九月、石神井川があふれ、洪水になったことが出て来る。9月だから秋の台風によるものである。あっしは当時東京は練馬に住み、ここで石神井川の氾濫のため二度、三度床下、床上を体験している。それで命からがら、千葉へ転居したわけだが、この記事は正にその頃だ。こういうものを読むt、自らの身に即して、色々なことが思い合わされる。

  また、井伏さんが荻窪へ越して来た時、駅のそばに蹄鉄屋(カナグツヤ)があったと記しているが、あっしのいた阿佐ヶ谷では、蹄鉄屋というものは見たことがない。ただ、亡妻の弟から聞いた話に、自分の妻は東北の出だが、昔の家業は蹄鉄屋だった、と云っていたのを思い出す。


 馬は現在で云えば、車のような存在だったので、蹄鉄屋は重要な職業だったのだろう。

 あっしの家は、阿佐ヶ谷駅と高円寺駅の中間にあったので、高円寺方面にもよく出かけた。「風土記」には、この辺りが将軍綱吉による生類憐みの令で、犬屋敷として収用されたとあって、これは初耳であった。そんなことは、今の今まで全く知らなかった。

 そういうことであれば、陸軍の管轄になる中野電信隊の(これも、懐かしい言葉だが)地所にも、一日中、沢山の雑多な犬の、喧しい鳴き声が、響きわたっていたであろう。

 一口に犬屋敷といっても、バカにならない。なにしろ、広さが三十万坪もあり、その上まだ十万坪も増やしたという記録があるのだから。著者の井伏さんも「犬の食う米代だけでも大したものであったろう。」と嘆息している。

 この本には挿絵のように、鱒二さんの自作の詩が入っており、なかなかに楽しい本に仕上がっている。また、中央線の文士連中の集まったシナ料理☆「ピノチオ」で出す料理やその値段が書いてあるのも貴重だ。

 シナ蕎麦が十銭で、チャーハンが五十銭、連中はここで、将棋を指し、食事をとった。
しかし、シナ料理のくせに屋号が、今ならイタリアンの店にでも付けそうな「ピノチオ」とは面白い。何で、来々軒とかにしなかったであろう。 

 太宰は、荻窪に来た頃はまだ学生で、初々しかったせいか、釣りに連れて行ったり、井伏さんは特別気に入っていたようで、この本での、太宰治の登場回数が、ダントツだそうだ。例の情死事件、その真相はあっしもよくは知らないが、井伏さんは小山清の思い出の中で、もし太宰が、下連雀にあった自分の家で、中島健藏と邂逅していたら「少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるようなことはなかったろう。」と太宰の死を惜しんでいる。(つづく)

  ☆  当時はみな、中華料理ではなく、普通にシナ料理といったようだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった』本~4

井伏さんのこの本は、文庫にして高々二百数十ページの分量だが、教えられることは多い。青梅街道についてもそうだ。ここはもと、成木(ナリキ)街道と呼ばれたそうだ。なぜかというと、慶長8年、家康が江戸城を築城する時、その資材として重要な、しっくい壁の材料を江戸に運ぶために、わざわざ作らせた街道だからだそうだ。

  その後、大名や町家でも、塗り壁の家を作るものが増え、ますますこの街道は重要性を増した。


  荻窪の地名は、付近に荻が生い茂り、くぼ地であったことに由来するらしいが、この地名は、尊王の士、高山彦九郎の「旅日記」にも出ているので、当時から有名だったと、井伏さんは記している。

  彦九郎の出身地、太田市立高山彦九郎記念館には、「旅日記」なども収蔵されているようなので、訪問の機会を見つけて、一目見られればいいのだが。

  「風土記」を読んでいて面白かったのは、荻窪にある天沼キリスト教会は、日本人の信者に洗礼を授けるとき、よく善福寺川を利用していたという。ところが、この川を地元では、ヨルダン川と呼んでいたという。井伏さんではないが、ヨルダン川とは云い得て妙である。

  もうひとつ、あっしの印象に残ったのは、前出の外村繁さんだが、このひとは無類の子煩悩であるがその上、子ども好きでもあったらしい。というのは、誰でも自分の子どもの出場する運動会は、無理してでも見に行くが、このひとは自分の子どものだけではなく、人さまの子の運動会でも、別に頼まれもしないのに、せっせと見に行ったようだ。井伏さんの「風土記」には、外村さんのよく行くその小学校の実名が記されており、そこにあっしらの「杉並第一」小学校も載っていたのだ。外村さんは1933年に阿佐ヶ谷へ引っ越して来たらしいから、あっしは無理としても、5歳年上の、兄貴の運動会なら、あるいは、見に来ていたかも知れないと思うと、急に外村さんが身近に感じられる。★
                             (つづく)

 ★もっとも、「風土記」の著者も、外村さんと張り合って、地元杉並の運動会にはよく行ったそうだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった本』~3

   お恥ずかしいことに、あっしは阿佐ヶ谷で生まれたくせに、JR阿佐ヶ谷駅の出来た経緯をマッタク知らなかった。

   この「風土記」を書いた井伏さんのお蔭で、それがはっきりした。もっとも、そう云っちゃあ何だが、この本には、森泰樹さんの「杉並区史探訪」からの引用が相当に多い。ほかにも、矢嶋又次さんの著書も、参考にしている。

   もっとも、広島生まれの井伏さんでは、荻窪の昔を正確にまた、詳細にわたって書くことは無理だろう。やはり、土地っ子や研究家の書籍を読みながら、書くのが正しい方法なのだと思う。

   ところで、その阿佐ヶ谷駅だが、子供の頃の駅は、今のような高架駅ではなかったので、一度踏切が閉まると、駅の反対側へ行くのが大変だった。あいにく貨物列車が通ったりすると、一年後は大げさだが、10分くらいは、向こう側へ渡れなくなってしまう。そのため、この踏切は開かずの踏切といわれ、さんざん陰口をたたかれた。


  それほど当時の貨物列車は長かった。あきれるほどに長かった。大型のトラックなどなかったからだろうか。

  「風土記」によれば、明治22年東武鉄道(現中央線)が開通した時、中野、荻窪駅は誕生したが、阿佐ヶ谷、高円寺駅は後回しになった。

  もちろん、地元では、大地主の相沢さん☆などが鉄道院に赴き、言葉を尽くして陳情したという。ところが、役所では、この痛切な陳情を、非情にも却下してしまった。

  そこで担ぎ出されたのが古谷久綱氏で、新駅誕生は井伏さんによると、文芸評論家の綱武の「叔父」さんの、力添えによると書いているが、例の物知りウィッキーは、久綱は綱武の「伯父」としているので、あっしは「叔父」は間違いだと思う。兎に角この久綱と云う衆議院議員の有力者を、担ぎ出したおかげで、阿佐ヶ谷にも、JR駅が誕生したという。

  それから、気になったのは四面道で、あっしらは、子供のころ『しめんどう』と呼び習わしていたが、井伏さんは、この地名の出るたび、わざわざ『しめんと』とルビを振っている。関東バスでは現在でも、『しめんどう』と読んでいるらしい。古く『しめんと』、という呼び名があったのやも知れぬ。

 
☆この相沢さんは、あっしらにも、なじみ深い。相沢さんの邸宅は、あっしらの6年間通った、杉並第一小学校の真ん前にあり、家と云うより昼なお暗き大森林であった。現在杉並区の保存林になっているはずだ。

  もともと、相沢家は大地主と云うことは知っていたが、「風の暮らす街…杉並百点Vol.1」によれば、相沢さんは、阿佐ヶ谷村の名主だったよし。庭内にはケヤキが50本ほどあったらしいが、現在では大分減って、20本ほどになっているらしい。中には樹齢400年、樹高36メータのものも、あるという。相沢家に限らず、あっしらの家の近くにも、ケヤキの大樹はむかしから多かった。これが防風林だったことまでは、知らなかったが…。

  ケヤキよりあっしは、「杉並」のもとになった、スギの大木もケッコウ多かったように記憶する。この密林には、そのほか、フクロウなども住んでいたような気がする。周囲には桑畑があり、茶の木なども植わっていた。

                     (つづく)
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2


Crosswordpuzzle2


>  「風土記」には『外村繁のこと』という章立てがしてあるので、井伏さんと外村さんはかなり親しかったように思えます。そこで、外村さんをマッタク無視するわけにも行かないと思い、青空文庫で取りあえず「打ち出の小槌」というのを読んでみました。

先日、地元の図書館に依頼して置いた外村繁の「阿佐ヶ谷日記」というの、が船橋市の図書館からやっと届いた。だが、思っていたようなものでなく失望した。内容は、井伏さんの「荻窪風土記」とはマッタク違っていたのだ。

 暇な時に届かないで、野暮用のある時に受け取ったので、ゆっくり読むわけには行かなかった。昭和32年、講談社で出版した単行本で、表題は「外村繁全集第6巻」。

 本は返してしまったのでうろ覚えだが、なかは、父の思い出、小品随筆、評論、書簡、日記、阿佐ヶ谷日記、あとは年譜、解説と分かれていたように思う。

 この小品には、例の「打ち出の小槌」が含まれる。書簡は、アメリカへ留学した長男への手紙がはいっている。これが沢山あり、それぞれが面白い。


 また、書簡は日記風で、まさか後世の人が読むとは思わなかったであろうから、初めから終りまで、正直な気持ちが書き連ねてあって、ご本人にはお気の毒だが、まことに面白い。

 二月五日の項に、その日の朝刊に、外村氏が新聞を開いて見ると、自分の作品「筏」が芸術院賞候補になっていた。翌六日には散歩中、佐野さんという人に会い芸術院賞候補の話で盛り上がる。十一日には、その「筏」を八千部も増刷している。よっぽど、評判が良かったのか。ところが、

 二月二十八日のところを読むと「芸術院賞落第した。」と書き、「丁度それくらゐでよろしいのだろう。」とつづけ、さらに、「両手に花なんて一寸いやらしいもんな。第一僕らしくないよ、」と自らを慰めるかのような書き方をしている。

 これは長男へ送った手紙なので、くやしさをモロに表現することは避けたのではないか。もうひとつ面白いのは、長男への手紙に自作のクロスワードパズルが出て来る。これが懐郷自家言葉謎綾取とあって、これに(なつかしきわがやのクロスワードパズル)のルビが振ってある。次男の和夫さんとの共同製作であるが、クロスワードをつくるとはなかなかご立派である。

 これが家庭用で、よこの鍵に、君の好物だの、女子大時代の母を思はせる鳥、が出て来たりして、じつに微笑ましい。縦の鍵にも、父のケッ作、わが家に一人もないもの、なんてのがある。これは、よそ紋には、逆立ちしても、解けない態の難解パズルである。(^^♪

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2


  ふたたび、AYさんから、コメントを頂きました。有難うございます。


> > > ピアニストであるだけでなく、エッセイスト。音楽学の方は博士号まで持つというからお爺さんよりずっと上。スゴすぎる。

> > 小保方氏の博士号取り上げのニュースを聞いて一句、
> >
> >  博士号 取り消されれば 白紙号  嗚呼。

> 一句とあるけど、これも俳句のうちにはいるのかな?
> 一句というと俳句のことしか浮かばないです。
> 川柳も同じ5・7・5なので、同じか?
> そんな程度のことしか言えなくてごめんなさい。

> でも、嗚呼 が字あまりになるけど、いい川柳だわ。拍手!!!

    間違いやんした、

  でも、嗚呼 が字あまりになるけど、いい川柳だわ。拍手!!!でした。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2

  
> > ピアニストであるだけでなく、エッセイスト。音楽学の方は博士号まで持つというからお爺さんよりずっと上。スゴすぎる。

> 小保方氏の博士号取り上げのニュースを聞いて一句、
>
>  博士号 取り消されれば 白紙号  嗚呼。


一句とあるけど、これも俳句のうちにはいるのかな?一句というと俳句のことしか浮かばないです。
川柳も同じ5・7・5なので、同じか?そんな程度のことしか言えなくてごめんなさい。

でも、『嗚呼』 が字あまりになるけど、いい川柳だわ。拍手!!!

  あっしのこの書き込みに対して、AYさんから、上記のコメントが寄せられました。AYさん、どうも有難うございました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2


> ピアニストであるだけでなく、エッセイスト。音楽学の方は博士号まで持つというからお爺さんよりずっと上。スゴすぎる。

小保方氏の博士号取り上げのニュースを聞いて一句、

 博士号 取り消されれば 白紙号  嗚呼。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2

>  青柳瑞穂さんは、有名なピアニストで作家の青柳いづみこのお祖父様なのですね。
>
>  うーむ。やはり血筋ですね。

  ピアニストであるだけでなく、エッセイスト。音楽学の方は博士号まで持つというからお爺さんよりずっと上。スゴすぎる。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2

M さんから、下記のコメントを頂戴しました。Мさん、有難うございました。(^^♪


 ☆「外村繁のこと」には、井伏さんが、阿佐ヶ谷の住人、小田嶽夫や青柳瑞穂の案内で外村家を訪問するくだりがあります。

   青柳瑞穂さんは、有名なピアニストで作家の青柳いづみこのお祖父様なのですね。

 うーむ。やはり血筋ですね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった』本 ~2

「風土記」には『外村繁のこと』という章立てがしてあるので、井伏さんと外村さんはかなり親しかったように思えます。そこで、外村さんをマッタク無視するわけにも行かないと思い、青空文庫で取りあえず「打ち出の小槌」というのを読んでみました。

  あっしも、井伏さんの筆で☆、外村さんという人が、いかに子煩悩であるかということは、うすうすは知っていましたが、この文を読むに及んで、ますますその子煩悩ぶりを実感しました。これは、主として三男坊の洋クンのことを書いたものですが、

  ある日、外村家では、子どもたちが集まり、何が欲しい、という遊びをやり始めます。ひとりは飛行機、ひとりはお人形、最後に聞かれた三男の洋クンは、打ち出の小槌でしたが、打ち出の小槌はずるいヤ、ということで、

  これはみんなの反感を買ってしまいます。でも、三男坊は負けずに、小槌を振る真似をしながら、みんなの欲しそうなものを、次々に唱えます。「お城出てこいぽんぽんぽん、飛行機出てこいぽんぽんぽん。」みんなはとうとう、終いには腹を抱えて笑い出します。ここで終わればまあ、月並みですが、さすが読売文学賞の外村さん。

  締めは「すると、父さんは、小説出てこいぽんぽんぽんか」。日ごろ創作のタネ探しに苦労する小説家の本音が、行間にチラリ、覗いています。

 
  前回では幼馴染のI君のことを書きましたが、彼の高校時代、クラスメートにどうやら、この洋クンがいたようなのです。(年齢が符合します)だから、洋クンを通じて、I君は外村家のことを、いろいろと聞いていたのかも知れないのです。しっかし、

  洋クンが、子供のころ、ちゃっかり屋さんだったこと、勉強が嫌いだったこと、だらしない面もあったこと。こういうことを、事細かに書き残された上、青空文庫で日本中の人に、簡単に読まれてしまう。外村さんも、罪なことをしたものです。(^_-)-☆

                             (つづく)

 ☆「外村繁のこと」には、井伏さんが、阿佐ヶ谷の住人、小田嶽夫や青柳瑞穂の案内で外村家を訪問するくだりがあります。この時は外村さんは、生まれて間もない次男を膝に抱いていたのですが、赤ん坊の方も、お客さんが見えたので、何かひとつ、芸でもやらないとまずいとでも思ったのか、お父さんの膝の上に、お漏らしをしてしまいました。すると、外村さんは、機嫌を損ねるどころか反対に「うふっ、うふっ」と嬉しげに笑いながら、おしっこの水温を吟味しているかのように両手に受けた」といいます。「子供はちっとも泣かなかった。」そうでしょう、そうでしょう。子供にだって分かるのです。優しい父親というものは。

  その後、この次男の方は理学博士に。そうでしょう、そうでしょう。そうに決まっています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あっしには大いに『かかわりのあった』本

Ogikubohudoki1

兄弟分の木枯し紋次郎といえば、「あっしには関わりのねえことでござんす」という台詞で有名ですが、きょうは、多少とも、あっしに関わりのあった本、について書くことにします。

  その一番手のタイトルは、井伏鱒二著「荻窪風土記」です。最初から脱線しますが、この荻窪と云う言葉も、あっしには関わりがあったのです。

  あっしの生まれた町は阿佐ヶ谷(東京都杉並区)ですが、隣の町が荻窪で、荻窪あたりも子供のころ、よく荒らし回ったものです。また、長じて初めて会社勤めをしたとき、最初の事務所のチーフが、なんと荻窪さんという苗字の方でした。さてこの

  タイトルですが、はじめ風土記とはチョット大げさな気もしたのですが、著者の井伏さんの「あとがき」を読んで、「荻窪あたりのこと」を書いてみようというつもりでそうした、とあるので、これは本格的な小説ではなく、ごく軽い随筆というような、意味合いを込めたものと分かりました。また


  著者が自伝風の、と云うだけあって、氏の交友関係がつぶさに分かって、その点でも貴重な記録であるとも云えます。たとえば、1ページのうちに船橋聖一、阿部知二、外村繁、梶井基次郎、三好達治など、読んだことはなくても、名前なら一度は聞いたことのある作家が、まるで、束になって飛び出して来るのです。これだけでも、あっしのような、ミーハー的な読者には、無性に面白く、一度読みだしたら、「やめられない、とまらない、」かっぱえびせん的な書物と云えます。この

  外村(トノムラ・シゲル)繁ですが、このひとが、阿佐ヶ谷の北口に住んでいたということは、幼馴染のI君から聞かされていました。外村と云う作家は、いわゆる私小説作家で、あっしにはマッタク興味がなかったので、それ以上立ち入ったことは聞かなかったのですが、今回「風土記」を再読して、なぜI君がさかんに外村さんのことを口にしていたかが、何となく分かったのです。


  子供のころ、I君は阿佐ヶ谷のあっしの家のすぐ近くに住んでいたので、よく一緒に遊んだものですが、彼の父親と云うのが、滋賀県の出身でした。戦時中小規模な軍需工場を経営し、それが当たっていい暮らしをしているようでした。じつは、この外村さんも、成功した近江商人の倅で、故郷の有名人ということで、その自慢がしたかったのかも知れません。しかし今から詳しいことを聞こうにも、I君はすでに泉下の客と、なっているので、どうしようもありません。(つづく)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~5

Jdgeselschaftderpchiba1_2


発作の起きた方々も、今度の写真をみれば、どんなに激しい発作も、たちどころに止まること必至である。これは、千葉県は船橋市にある『千葉県日独協会』のちらしであった。この会は日独友好を旗印とし、大戦時の独逸人捕虜などの調査研究、ドイツ語の普及など、そのほか、さまざまな活動を行っている。

  あっしも、入会や、ドイツ語の学習を強く勧められたが、なにせこの歳ではと、尻込みするあっしに、われわれも学習者にも、年配のものが多いという説明を受けた。

  船橋、津田沼のご近所の方、ぜひ入会して、日独の友好にご活躍下さい。協会に成り代わって、お願い申し上げます。

  ドイツはいま、移民問題や、VWの不祥事に揺れ動いていますが、腐っても鯛であります。世界に冠たるドイチュラントとの友好は、今後とも欠かすことが出来ないと、あっしは愚考する次第であります。中途半端ではありますが、

  以上をもちまして、習志野ドイツフェア瞥見記を終わります。(完)

 (つけたり)

  なぜ、習志野市の話に船橋市が出てくるか。習志野というのは当時、現在の習志野市、船橋市、八千代市にまたがる広大な地域だったからです。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~5

Jdgeselschaftderpchiba1

モリシアビルのステージの脇、写真パネルの陰に隠れて、細長い机が二つほど出ていて、そこに年配のひとが二、三人いた。何だろうと近寄ると、机上に、こんなパンフレットが置いてあった。

  いきなりこんなものを出されれば、ドイツ語アレルギーのものは、途端に烈しい発作を起こすかもしれない。あっしとて、御同様である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~5


1

上述したように、この捕虜収容所には(当時は俘虜と云ったが)、各方面の専門家が蝟集し、いわば多士済々の状況であった。

  その一例として、例えばこの絵、千葉の稲毛海岸の漁師の娘と云うことだが、実に上手に描いてある。顔は100年前にしては、すこしモダンな感じもするが、服装など、風俗資料としても立派だと思う。

  一見版画のようにも見えるが、謄写版かも知れない。当時は版画などの道具も手に入りにくかっただろうから。

  収容所の宿舎は、今から見れば、バラックのようなものだったが、意外なことに、東屋(かれらはLaubeと呼んでいた)とか、酒保などもあったという。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~5

Withtheirdog

当時、習志野俘虜収容所にいたハンス・ミリエスは、捕虜だけで男声合唱団や、交響楽団を作り、しばしば同所で演奏会を催した。

  ドイツの音楽学校を出た同氏は、第一次大戦で応召し、中国の青島(チンタオ)で日本軍の捕虜になった。その後上海交響楽団の指揮者兼コンマスをやったこともある。

 ミリエスは習志野にいた間に、作曲も手掛けたが、その頃の資料は長らく所在不明になっていた。ところが、およそ80年後の平成13年、偶然子孫の家で、ミリエス作曲の楽譜が見つかった。

「閉じておくれ 僕の目を」と云う曲☆で、これは伊地知元子編曲で、鮫島由美子さんが、習志野文化ホールのステージで歌った。これをNHKが取り上げ、全国放送したことから、全国で感動の渦が巻き起こった。

  写真。真ん中の台の上に立っているのがその、ハンス・ミリエスである。演奏者の服装はまちまちだが、中には水兵服を着ているものもある。ところで

  当時、この収容所内には、ヴァイオリンやギターを作る工房まであったという。これも、驚くべきことの一つである。(つづく)

☆10月17日「モリシア」センターコートで行われた、ドイツ音楽の調べでは、プログラムによると「第九」やドイツ民謡「別れ」などとともに、ミリエスのこの曲も演奏された模様である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~5

Narasinosausage1


ドイツ人捕虜関係の展示は、自分で見つけました。それはステージのあるモリシア広場の前のモリシアビルの中でした。ここにもやはり、ステージがあり、そこで第九の合唱などがありました。その脇に、第一次大戦時の習志野俘虜収容所の、詳しい様子が、数十枚の写真パネルで展示されていました。

  よくもこんな古い写真が残っていたと、ビックリです。この収容所のドイツ軍兵士の数にも驚きます。説明板によれば、およそ1000人いたという話です。1000人もいれば、いろいろな技能を持った人たちが大勢いたとしても、べつにフシギではありません。

  で、捕虜の中に、ソーセージを作る技術を持った、職人がいることに目を付けた日本の農商務省によって、カール・ヤーン他の兵士が、日本人に作り方を伝授し、さらに同省が講習会などを通じて、普及に努めたので、それが次第に日本全国に広まったとあります。

それが、今からちょうど100年も前のことだと聞くとまた、ビックリです。

  それで、習志野市では同市を「日本ソーセージ発祥の地」と決め、声高らかに宣言したのであります。

当市ではさらに、広場の屋台で販売しているソーセージが、当時のレシピで作ったなどと宣伝し、屋台の幟旗にも、でかでかと書く紋だから、これが売れに売れて、本場のソーセージに負けず劣らず、ついに完売したということです。

 
  あっしは専ら、ドイツの屋台のものしか、食べませんでしたが…。(^^♪

  「習志野ソーセージ」の屋台は、習志野青年会議所が取り仕切っていたようです。

  なお、こうした日本国内の収容所には、捕虜を虐待したところもあったでしょうが、同収容所の所長の西郷寅太郎は、西郷隆盛の嫡子で、この人は独逸に留学経験があったので捕虜のことを、非常によく理解していたといいます。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~4

ドイツフェア第2日目の演奏、兼司会をやっていたお嬢さんから、(このひとこそ、文字通りの、口八丁手八丁で、その達者ぶりには誰しも圧倒される)「昨日も来られた方は手を挙げて頂けますか?」という声が掛かったが、あっしは手を挙げるのが、ちょっと恥ずかしかった。そうでしょう。地元民でもないのに、ほんとうに連日、ご苦労さまなこってす。(^^♪

  この人、主催の商店会からいくらか貰っているのか、スーテジの上にビアマグを持って現れるのには、ショウジキ閉口した。だって、あっしは最近はそう飲まないし、いくらお祭りと云ったって、その度、なにがしかの支出も伴うのだから。

  それに、観客席と屋台とはチョット離れていて、私物を置いたまま席を離れるのも心配だ。あっしも、

  最初は後ろの方へいたが、次第に前にせり出し、気が付いてみると、終いには一番前の席に座っていた。そこへ二人連れのご婦人がやってきて相席となった。この人たちは、出演者と知り合いらしかったので、楽団のことを、聞けて良かった。あっしは、年配の叔母さんだという婦人から、屋台で買った焼きそばを一人前ご馳走になってしまった。姪だという若い人とは良く話した。

  クー・グロッケンの演奏は、午前と同様、やはりやって呉れたが、午後はそのほかに、アルペンホルンの演奏があり、これはまたこれで、素晴らしかった。このホルンは特別に大きいし、普段はなかなか直に聴く機会はないと思う。

  ここへ来て、色々楽しい思いをさせて貰ったが、一番良かったのは、ビールの本場、ミュンヒェンの、乾杯の音頭をステージの上で、しかも原語で実演して貰ったことかも知れない。あっしは、ドイツは何度か行っているが、ミュンヒェンはまだ一度も行っていない。オクトーバーフェストの気分が、百分の一ほど味わえた。なにしろ、


  600万人もの、ビール好きの集まるミュンヒェンのオクトーバーフェスト。そこでの乾杯はこんな具合だそうだ。アイン・プロージット、アイン・プロージット、デア・ゲミュートリッヒカイト、これをもう一度くりかえして、ここから、乾杯の音頭の秒読みが始まる。アインス、ツヴァイ、ドゥライ、グズッファ!プロースト!ここでビアマグのビールを一気に飲み干す。(つづく)

 写真がないのでこれで、ご勘弁を! 
     ↓       ↓
 https://www.youtube.com/watch?v=7zGL_I_Q-Vo

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~4


Beerglasses1

この写真にある小さなビアマグは、あっしらがドイツに行ったとき、買ったものです。高さは、ふたのところを入れてもたったの9センチ。それが13ユーロもしたのでした。

  お土産屋で買ったのではなく、あっしが見つけた、(たぶん)フランクフルトの「Kaete Wolfahrt」☆と云う店で買ったのです。それで高かったのかも知れません。

  この店は、本店はローテンブルクにあるようですが、独逸では有名な店のようです。主としてクリスマス用品を扱っていて、屋号は創立者の名前(この方は2001年に他界した由)です。

  それから、ビアグラスの方は左がクロンバッハーで、あっしが「ドイツ展」の時、歴博のショップで購入しました。右側は、これがタダ。じつは、この津田沼の「ドイツフェア」で、二日目に、屋台でビールを注文の人に1個ずつ呉れたのです。やった~。(^O^)と紋爺郎も、年甲斐もなく大喜び。


  確か、2種類あったようです。このビアグラス。日本では、どこのビアホールでも同じ容器で出しますが、あちらでは、中の銘柄によって、グラスが決まっているようです。これが、日本のたとえば「やまや」などで買うと、結構高いのです。

  けさ、このグラスを指先で弾いてみたら、音が違うのです。歴博の「クロンバッハー」は低い音、ドイツフェアの「マイスター・ピルス」は高い音。これは、グラスの厚さから来ているようです。

☆ http://www.wohlfahrt.jp/63-0-unternehmen

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~3


1

この辺りは、キャラクターの洪水と云うか、ずいぶん色々なのがあるらしい。じつはこの催しとは別に、同地では「津田沼ミラクル2015」というのも、催されているようだが、この方の会期は11月23日まである。

  このチラシを見ると、千葉県のキャラ『チーバくん』をはじめ、モリシア広場のすぐそばにある、千葉工業大学の『チバ二―』、習志野市の、ご当地キャラ、『ナラシド』、このあたりを通る新京成電鉄の『しんちゃん』、やはり津田沼駅前にある「パルコ」のキャラ、『パルコアラ』、ふなばし産品ブランドPRキャラという、長~い肩書をお持ちの、『目利き番頭船えもん』、それに、このモリシア津田沼PRキャラの、『ツダヌン』である。

 つまり、今ステージ上がってるのが、その『ツダヌン』その人である。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く~3


Concertbycowbell


>  で、第1日目は、真昼間から「アルプス音楽団」の演奏があった。二日目のきのうは、午後6時開始だった。

最初のアコーデオンの時は、「双頭の鷲の旗のもとに」、「ローズマリーポルカ」などを演奏したが、つづくクーグロッケンでは、「雪のワルツ」をやった。これはチロル地方の音楽だそうだ。また、

  このクーグロッケン(英語でカウベル)は、すごく運動量のいる演奏だと思った

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~3

Germanfair2


  確かに習志野市の広報を見れば、いろいろ書いてあったのだけれど、あっしは出かけるとき何かひとつは、必ず忘れる。←これ、そんなことを自慢するヤツがあるか!広報の、

  『ステージイベント』と云う箇所には、楽団による演奏、合唱、大道芸人のパフォーマンスなどと、書いてあった。

 で、第1日目は、真昼間から「アルプス音楽団」の演奏があった。二日目のきのうは、午後6時開始だった。

  この音楽団というのは、向かって右のトロンボーンを吹いている竹田さんというひとがリーダーで、「銀座ライオン」を根城に活躍しているそうだ。

  今まで、船橋でのオクトーバーフェストにも、何回か出演しているらしい。あっしは、行ったことがないが、「銀座ライオン」のビルに「音楽ビアプラザ」というのがあるのだそうな。

  そういえば、この楽団は、あの「ゲルマニア」にも、よく出演したらしい。「ゲルマニア」は、60年近くも続いたが、2012年の12月29日には、通い詰めた熱心なファンから惜しまれながら、ついにその長い歴史を閉じたという。

  その閉店の記念すべき日にも、「アルプス楽団」は、ここで演奏会をやったそうだ。(つづく)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~2

Koenigdunkel


>  あっしも、きのうは『ケーニッヒ・ドゥンケル』というやつを飲んだし、きょうはお目当ての演奏がなかなか、始まらないので、きのうの『ドゥンケル』に加えて、きょうは『ビットブルガー』というのを飲んだ。

>   写真はレーヴェンブロイで、ビットブルガーでないので、申し訳ないが、どういうわけか、ビットや、ケーニッヒの写真がない。


  ケーニッヒの写真がないと書いたが、じつはあったのだ。クロンバッハーは、ドイツ展の項に、写真を挙げておいたので、省略。

  ケーニッヒというのは実は、その後に、ルートウィッヒと云うのが付くのだが、売り子の若い女の子は、覚えられないのか、ケーニッヒ・ドウンケルと云わないと、分からないようだった。

  待てよ、ルートウィッヒ王と云えば、あの馬鹿でかい、ノイシュヴァンシュタイン城を作らせた狂王、ルートウィッヒ2世のことではないのか。

  こんな紋を飲んで後で後悔しないだろうか、と一瞬、強い恐怖の念に襲われたが、嚢中相変わらず乏しく、狂王のような『破滅的な浪費』をしないで済んだ。

  ドゥンケルというのは、英語のダークで、ドイツ語では濃いと云う意味らしい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~2

Warsteiner1


>  売り手の男は、これこそ独逸一のビールと云っていたが。他の回答者は、ビットブルガーとヴァルシュタイナーを挙げていた。ほかにイエヴァーというのもあったが、ビットブルガーは、ほかにも推奨している者があった。

  ここに悪シュタイナーと云うのが出て来るが、失礼、悪でなくヴァルでした。(^_-)-☆この銘柄、帰宅してきのう、ゲットしたものを点検していたら、その中にあったのだ。

 二杯目を注文すべく、観客席を離れ、ビールの屋台へゆき、台の上を見ると、このコースターが目に付いた。さっそく、何食わぬ顔をして、懐に納めた。

 家でよくみたら、これがその『ヴァルシュタイナー』だったというわけ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く ~2

No9symphony


  これは昨日だが、れいの『モリシア』ビルで、習志野合唱団男性有志による、第9の合唱があった。ほかにも「大きな古時計」や「別れ」、ウェルナーの「野ばら」、「ドイツ国歌」など、いろいろあったらしいが、あっしの行ったときはもう終りに近く、ベートーヴェンの「歓喜の歌」になっていた。

  その場所で、合唱があることを知らなかったので、惜しいことをした。「歓喜の歌」はドイツ語でなく、岩佐東一郎の作詞で、日本語だった。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く~2


Germanyquiz


お詫びのしるしと云うわけではないが、別の写真を出しておく。これは会場の数か所にあったクイズのひとつ。子供づれも結構多かったので、挑戦した子もあるかも知れない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く ~2

Loewenbraeu1

じつは昨日に引き続いてきょうも、会場へ足を運んでしまった。←よっぽど、ヒマなんだな、紋次郎ってヤツは。

昨日は日中で、今日は夕方近く。ところが、ステージは午後6時からだったので、中途半端な時間に着いてしまった。

  早すぎて、前の『モリシア』というビルへ入って、時間を調整したつもりだったが、それでも早かった。ここで、チョットお断りして置きたい。

  あっしが、ウーロンハイだの、らーめんだの、ケバブの写真を出すもんだから、そこには、ドイツビールやつまみはないのかようなどと、問責されても困るので、ここで一応弁明をしておく。

  もちろん、ステージほか屋台だの、そこかしこに、でかでかと、独逸国旗が使われているし、もともとこれは、ドイツフェアでもあるので、もちろん、数か所にドイツビールやソーセージなどの屋台が出ており、それぞれ長い行列もできていた。

  あっしも、きのうは『ケーニッヒ・ドゥンケル』というやつを飲んだし、きょうはお目当ての演奏がなかなか、始まらないので、きのうの『ドゥンケル』に加えて、きょうは『ビットブルガー』というのを飲んだ。

  今ちょっと、ネットを見ると「ドイツで一番人気のビールは何?」という質問があり、その回答を見ると、1位エッティンガー、2位クロンバッハー、3位がビットブルガーというのが、いわゆる、ベストアンサーになっていた。一方、

  売り手の男は、これこそ独逸一のビールと云っていたが。他の回答者は、ビットブルガーとヴァルシュタイナーを挙げていた。ほかにイエヴァーというのもあったが、ビットブルガーは、ほかにも推奨している者があった。

  あっしも、先年ドイツ(トリアー)へ行ったとき、ビットブルク社が、マラソン大会のスポンサーをやっているのを、目撃したことがある。

  ちなみに、あっしの街での「ドイツ展」開催時、ショップであっしの買ったのが、上記のクロンバッハーだった。(つづく)

   写真はレーヴェンブロイで、ビットブルガーでないので、申し訳ないが、どういうわけか、ビットや、ケーニッヒの写真がない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く

Kebab


   そういえば、ケバブだの、タンドリーチキンも、紋題ですね。もっとも、ケバブの方は、タンドリーと違って、もうドイツ料理として、認定されているのかも知れませんね。

   ドイツに行っても、けっこう方々でみかけますもんね。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く

Ramen


   やがて、ひとも増え、だいぶ賑やかにもなって来たので、そこらを一回りしてみた。この催し、「ドイツフェア&グルメフェスタ」とあるが、どうも「グルメフェスタ&ドイツフェスタ」と看板を塗り替えた方がよさそうだ。

   この広場に立つ限り、売らんかな主義が、どうも鼻につく。たしかに、このドイツフェアだけでは、人集めは難しかろう。今のイベントはだいたい9割方が、町おこしが目的だろうから、これも致し方がない。

   そこで、「本部」と云うところへ聞いてみると、あれはどこそこでやっていますが、ちょこっとあるだけで、大したことはありません、と意外にもそっけない返事。

   あっしの頭には、習志野市は、第一次大戦時、捕虜収容所があったことしか浮かんで来ない。一体どこでやっているのか。

  写真を見て頂きたい。可笑しいのは、ドイツフェアなのに、『ウーロンハイ』だの、『らーめん』の屋台が出ている。(つづく)
 

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Re: 習志野ドイツフェアへ行く


Photo


   着いてみると、ステージではまだ何も始まっていないらしく、観客席はわりと閑散としていた。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

習志野ドイツフェアへ行く

Doitufair3

2,3日前、京成電車で居眠りをしたらしく、かなり先の大久保と云う駅まで行ってしまった。怪我の功名ではないが、たまたま駅にあった習志野市広報を見たお蔭で、17(土)、18日(日)の両日、JR津田沼駅前で『習志野ドイツフェア&グルメフェスタ2015』という催しがあることを知った。

  文集でも書いたように、あっしは中学のころ、兵庫県の山奥の、第2次大戦時の捕虜収容所のあった、I町で暮らしたことがあるので、とりわけ、捕虜には関心が深い。

  その後、千葉県に、第1次大戦時のドイツ人捕虜の収容所(習志野俘虜収容所)があったことをしり、わざわざ、その遺跡を訪ね歩いたことがある。こりゃあ、是非行かねばと思った。

  今日がその10月17日なので、勇んで(^O^)会場へ出かけた。写真は、その「広報」(つづく)

                                       ー10月17日記ー


| | Comments (0) | TrackBack (0)

« November 2015 | Main | January 2016 »