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<title>紋次郎のあっちへ飛んだりこっちへ行ったり</title>
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<description>　　　　私のホームページ
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<title>オランダ船は宝船？</title>
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<description>きょうは、佐倉市主催の日蘭交流400年記念 リレー講座＜ オランダが波濤を越えて...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;  きょうは、佐倉市主催の日蘭交流400年記念 リレー講座＜ オランダが波濤を越えてやってきた＞ の最終回に行ってきました。本日の演題は「日蘭交易における珍品とその受容について」というものでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;  この講演会でじつに興味深いのは、演者がドイツ人だったことです。もともと日蘭友好の歴史にはシーボルトをは  じめドイツ人が大活躍をしています。まあ、内容がよければ何人が喋ろうと構わないわけですが…。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;  司会者の紹介によると、この方は日本語がペラペラであるだけでなく、九州大学の副学長をされていると(＠_＠;)いうことでした。なるほど、講演が始まってみるとまず日本語が達者で、その上スクリーンに映し出されるものの説明はすべて日本語でした。一番驚くのは和漢三才図会の説明を詳しくされたことです。また、中国語が出てきたときも、あまり発音がいいのでビックリしました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;  著書論文も数え切れないほどあるそうです。さすがドイツ人だけあって、実に話の内容が論理的で、一分のスキもない。西洋人を南蛮人と紅毛人にわけ、南蛮は東夷、西戎、南蛮、北狄とある四夷の内の一つ、と説明する辺り本格的です。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鎖国について4つの口というのは初耳でした。中心は幕府、ショーグンですが、そこに至るまでに4つの重要な口があった、と。それは、各々長崎、松前、対馬、薩摩ということでした。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　意外と世間で紋題にされないものに密貿易があり、これが意外と文化の交流に役立った、と。世にケンペル、ツユンベリ、シーボルトを合わせ、三学者、三賢者などいうというのはまあ常識的だけれど、珍品の置き場と云うのは面白かった。重箱などもそうだが、床の間が唐物の置き場だったよし。珍品は最初、オランダ人が参内するとき持参したが、その内大名やショーグンからじきじき特別注文が出るようになる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、ショーグンのうちでも8代吉宗は日本の馬より大柄な「洋馬」を27頭も注文したらしい。それが佐倉牧にも齎された由。また源内など行なった珍品の自慢会である「産物会」はもっと評価されてしかるべきなどとも云っていた。終ってみて、近頃なかなか充実した講演会だったとふかく感じました。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あと、ドイツ人であるヴォルフガング・ミヒェル先生は南部の生まれなので、オランダ語がうまくしゃべれないとボヤイテいました。シーボルトと一緒に来日していれば見破られたかもしれないと云って笑われた。逆にドイツでも北部の人はオランダ語は楽だそうです。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　珍品中に「皇帝の茶」Kaysertheeというのがあるそうで、何か分かりますかと聴衆に尋ねられた。だれも分かるものはいなかったが、これは緑茶のことだそうです。毎日飲んでいるのが「皇帝のお茶」と思えば、その味も一段とよくなるのでは？　12月19日記　（おわり）&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文化・芸術</dc:subject>

<dc:creator>Monjirou</dc:creator>
<dc:date>2009-12-21T22:19:26+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/post-5ad4.html">
<title>伊太利亜と鴎外</title>
<link>http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/post-5ad4.html</link>
<description>あっしが鴎外に初めて出会ったのが、「即興詩人」だった。正確に云うと、その冒頭にい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;  あっしが鴎外に初めて出会ったのが、「即興詩人」だった。正確に云うと、その冒頭にいかれたのである。参考までにチョッとそれを引用してみる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「羅馬に往きしことのある人はピアツツァ、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大いなる広こうぢの名なり。貝殻よりは水湧き出でゝその高さ数尺に及べり。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　誰しもこのフレーズを音読すれば、すぐにでも羅馬に行きたくなってくる。それほどの迫力はあるはずだ。文章が古いので今これを通読するのは容易なことではないが、多少の苦労はあっても最後まで読了したいものである、と思う。たとえば、現在では中黒を用いるところで、句点を使うの一つでも、読みにくい原因の一つとなる。つまり、上記は、現在ではピアッツァ・バルベリーニと表記。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　しかし今から120年くらい前に訳出されたものにしては、地名の表記などにもあまり違和感を感じないことも確かだ。フィレンチェ、ポムペイ、アンナア、カプリイは今ならフィレンツェ、ポンペイ、アナカプリだろうが、大差ない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「独逸日記」をみると、イタリアには一度も行っていない筈だけれども、鴎外に伊太利亜についての基礎知識はかなりあったと推測できる。一番早い記述ではライプツィッヒ在住時、つまり独逸到着の翌年になるが、到着の7ヵ月後にはもう北イタリアはトリエステ出身の婦人等と語り合ったりしている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そのほか友人らとイタリア料理店（伊太利酒店）などで会食することもあり、キアンチイ（キアンティ・ワイン）やポレンタ（トウモロコシを使った料理）の味についての感想もちゃんと記録されている。カーニバルのイタリア語、カルネヴァーレ（カルネ、ワレ）もすでに知っていた。もしかしたら、チミテーロ（墓地）の意味さえも知っていたかもしれない節がある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それはドイツに住んではいても、日独の友人、たとえば明治19年9月には、アウグスト、カルル大尉と知り合い、その夫人からイタリア、特にヱネチア（ヴェネツィア）について相当詳しく土産話を聞かされ、鴎外も興味があったのか、かなり熱心に質問したことが日記に見えている。もちろん日本人の友人からも、イタリア旅行の話を聞く機会が意外と多くあったらしく、長靴の国に対する知識もかなり蓄えていたものと思われる。また日本人留学生の間には、緒方惟直のように、イタリアに住んでイタリア女と結婚した者さえあった。また自身、イタリアから鴎外を訪ねて来た邦人に、緒方のことなどを熱心に聞き質してもいる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それよりなにより、一つしか齢の違わなかった親友の原田直次郎が、スケッチなぞで、イタリアへ旅行したりしているから、かの地の事情については相当に詳しく聞いていたに違いない。原田も、また変り種で、画家なのに東京外語（仏蘭西語科）を出ているので、仏蘭西語と似たところの多いイタリア語なら、多少は使えたのかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　翻訳の「即興詩人」は初めから終りまでイタリアの話だが、「ふた夜」も舞台はイタリアでミラノ、ナポリ、ピアチェンツァ、ヱロナ（ヴェロナ）ロオマ、アッダ（イタリアはロンバルディーア州の河の名）などお馴染みの地名がつぎつぎ飛び出してくる。地名ではないが、コルソ、スカラ、マドンナ、とかチャウ（チャオ）、アワンチイ（アヴァンティ、進め）など耳慣れた言葉も出てくる。ドイツ語屋の鴎外なので、ジュリエッタがユリエッタになっている所なぞは、むしろご愛敬というべきであろう。ザクセンが舞台の「文づかい」にも、イタリアの誇る詩人ダンテの「神曲」が顔を出す。こういう眼で鴎外を読むのは、邪道かも知れないが、本の読み方にいろいろ難しい決まりがあるとも思えないので、あっしはこんな読み方をしてみた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また読書家の鴎外の書棚には、上記のダンテ・アリギエーリの「神曲」もあったことだし。鴎外はそのほか、小倉時代だけでなく、滞独中にも、短期間ではあるが、イタリア語と類縁関係にある仏蘭西語（ベックという人物から）、スペイン語（医師ヰルケから）などの個人教授を受けている。明治18年の10月には、ドレスデーンの画廊、伊太利画歴代画展覧会へ出かけている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また鴎外は、後述の帝国美術院長までやった男なので、イタリア絵画のことだって普通人以上に詳しかっただろう。現にドイツはドレスデーンの画廊で、鴎外は「久しく夢寐する所」だったラファエルの傑作「システィーナのマドンナ」と対面し感激している。37歳では「審美綱領」、38歳で「審美新説」、41歳で「芸用解剖学」を出し、美術、美学関係にも深く携わっている。45歳時には文部省の美術展覧会審査委員、57歳で帝国美術院長を引受けたりしているので、イタリアをはじめ欧州の美術には相当造詣が深かっただろうことは十分想像できる。イタリアと、一見ドイツ一本槍のように見える鴎外の関係も、思えば、そんなに浅いものではなかったということがこれで云えると思う。（おわり）&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文化･芸術</dc:subject>

<dc:creator>Monjirou</dc:creator>
<dc:date>2009-12-17T22:57:29+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/1-fee2.html">
<title>原田直次郎と鴎外～1</title>
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<description>　　「独逸日記」を見ていると、原田直次郎と云う名が頻出する。直次郎と林太郎はたい...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　　「独逸日記」を見ていると、原田直次郎と云う名が頻出する。直次郎と林太郎はたいへん仲が良かったとされている。で、鴎外のいわゆる三部作の一つ「うたかたの記」にも登場することになる。直次郎といえば、あっしなどは滞欧中の名作「靴屋の阿爺」を思い出す。頭が三角で、禿げ上がった靴屋の風貌は一度見たら誰だって忘れられないと思う。それほど印象の強い作品である。東京芸大の所蔵品のうちでも貴重な油彩画だと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この作は直次郎ミュンヘン留学中の明治19年のものというが、かれの名が「独逸日記」に現れる最初は、同年の3月25日だと思う。そこにはこうある。「画工原田直ニ（ママ）郎をその芸術学校街Akademiestrasseの居に訪ふ。直ニ郎は原田少将の子なり。油絵を善くす。」と。直次郎はたしかに才能ある画家ではあったが、惜しくも37歳の若さでこの世を去る。「うたかた」はあるいは、夭折した直次郎への供養だったのかも知れない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　いわゆる芸術家肌だった直次郎は、マリイと云う女を愛人にし、どこへ行くにも連れ歩いたようだ。「独逸日記」にはその同棲生活が如実に語られている。8月15日の項にはかなりのページを割いてこの女を紹介している。それによると、直次郎はマリイを恋人としてではなく、妾として扱い、そうした存在として愛していたといえる。彼女はもと「ミネルヴァ」という喫茶店でウェイトレスをしていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　顔色も優れないし痩せっぽち。そのうえ才知もない。家庭も貧窮のどん底にあったらしい。ところが、マリイのどこが気に入ったのか、二人の仲は人も羨むほどだったという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そこで鴎外も「余は怪訝せざることを得ず」と書き、さらに重ねて「原田の所業は不可思議と謂うべし。」と念を押している。というのは、原田の学友にチェチェリア・プファッフという女子学生が居て、これが実にいい女だったという。しかも良家の娘で、父親はエルランゲン大学の教授をしていた。肌もきれいだし、鼻も高い。そのうえ、英仏語にも堪能。筆も立ち、父上の著作の手伝いもするという才女。さらにチェチェリア自身、原田を大いに気に入っていたらしく、一生を共にしてもいいとまで周囲に洩らしていたらしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そこで鴎外は思う。かれは結婚より、後腐れのない男女関係をむしろ望んでいたのではないかと。あっしにも鴎外の方が、地に足の着いた、常識的な考えの持ち主だったように思える。さらにチェチェリアは自分で費用を負担した上での、直次郎とふたりでのパリ遊学まで夢みていたというから、その入れ込みようはタダモノではない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「独逸日記」の記述は明治21年5月14日までだが、「観潮楼日記」の明治25年8月21日の項にも、フランスから帰国した直次郎と散歩し、原田のために「読日本新聞西洋技術家論」なる文章を書いている。直次郎はその7年後の明治32年の暮れに夭折するわけだが、そのことは32年12月29日の「小倉日記」に出てくる。そこにはこんな風に書かれている。「夜原田直次郎の訃に接す。云う十二月二十六日午前八時四十分死し、二十八日午後一時天王寺に葬ると。」そのあとには、鴎外の母親が直次郎の入院を知って見舞いに行くが、病室が分からず、むなしく帰って来たことが記され、「洵に悔恨すべし。」と歯軋りして残念がっている様子が紙背に窺われる。二日後の大晦日には、さっそく「原田直次郎」という題で、親友の追悼文を書き記している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　それから『騎龍観音』というのは直次郎のユニークな油彩画で、龍に乗った観音を描いた。この絵は勧業博覧会に出展され、鴎外と外山正一の間に画題論争を引き起こした。このことに関しては鴎外の「原田直次郎に与ふる書」でも、触れられている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　日記を見ると、明治19年8月31日の項には、原田はマリイをつれてミッテルワルドへ出かけたとあり、さらに10月1日には、マリーとともにコッヘルから帰京した旨が記録されている。一方鴎外の方も10月には原田の許へ赴き、ミッテルワルド（バイエルン州の村）やコッヘルで描き上げた風景画などをを見せてもらっている。なお、原田のアトリエには、完成間近の近衛公や岩佐、浜田氏らの肖像画もあったらしい。また、11月の項を見るともっとビックリする。原田はミュンヘンを去り、スイス、イタリア、フランスを廻るといっているが、同行のマリーの腹には、すでに原田の子が宿っていた、と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　「独逸日記」を読むと、こういう問題は原田だけでなく、留学生の間ではかなりあったことが知れる。7月15日の項にもこうある。緒方惟直の事件である。斉藤美奈子によれば、鴎外はわが国『妊娠小説の父』ということになるらしいが、鴎外の他にも「父」は一杯居たのだと思う。直次郎しかり、惟直（はイタリア娘と正式の結婚をしたが、その後早い時期に死亡した）しかり、ヴェネツィアだけでなく、ベルリンにも、梅某の子、中村某の子、など日本人の顔をした遺児が方々にいたらしいことが鴎外の日記に記録されている。妻子はみな養育費の紋題で生活に窮していたことが、友人の話などで鴎外のところへつぎつぎ届いている。もしかしたらこれらは氷山の一角で、当時、面にでない遺児や現地妻なども、ケッコウ多かったのかも知れない。もともと留学生の分際で、十分な養育費など払えるわけがない。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文化･芸術</dc:subject>

<dc:creator>Monjirou</dc:creator>
<dc:date>2009-12-15T23:11:44+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/4-1609.html">
<title>独逸日記と鴎外～4</title>
<link>http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/4-1609.html</link>
<description>それは確かに司馬遼太郎の場合にも同じような人物は出てくる。しかし遼太郎のが資料の...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;  それは確かに司馬遼太郎の場合にも同じような人物は出てくる。しかし遼太郎のが資料のコピーであり、聞き書きであるのに対し、鴎外のはすべてが実見談であり、肉声であるところがスゴイ。というか、スゴスギル。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　たとえば、ポンペとの邂逅場面でもそうだ。これを、〇月〇日　ポンペと会う。数語を交わし分る。でもいいところを特にこの場面は詳細に綴られている。その描写がまた、じつに生彩に富んでいて、まるで鴎外と並んで腰掛けていて、じかに話を聴いているかのような思いにすらなってしまう。あっしら読者にとってこれにまさる喜びが他にあろうとは、とても思えない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その場景をあっし流に再現してみると、大体こんな感じになる。自分から近づいて来たポンペは、鴎外に向かって語りかける。「わたしはポンペと申すものです」鴎外は驚き「エッ、あなたがあの西洋医学を日本に将来したポンペさんでしたか。じつはわたしの父も、間接にではありますが、蘭学塾で学んだ者です。」といったやり取りを記録している。また次の機会には鴎外に「君は林研海とよく似てる。あいつはオランダに居たときよく女のことで紋題をおこし、自分がいつも尻拭いをさせられた。君も気をつけたほうがいいと思うよ。」などとも云ったらしい。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また登場人物の豪華さもチョッと他に例を見ない。いわゆるハリウッドの得意とする豪華キャストといってもよい。海外旅行などで皆さん良くご存じの、ルートイッヒ狂王☆が出てくるかと思えば、さきのポンペ、ナウマンと丁々発止のやりとりがあるかと思えば、松本良順、近衛公爵、松平子爵がでてくる、つづいて品川弥次郎、榎本武揚、大山巌、北里柴三郎がでるかと思えば、乃木大将、河上操六がでる。かと思うと、今度は結核菌などの発見で有名なノーベル賞受賞者ロベルト・コッホ（鴎外の師でもある）が出る。中浜東一郎（ジョン万次郎の長男、東京衛生試験所長）、レオポルト・ミュラー（東大医学部学長）、シベリア単騎横断で名を馳せた福島大尉あれば、ブラジル皇帝ペドロ2世、かと思うと今度はわが国の小松宮彰仁親王が登場、また来林した西園寺公望を停車場に迎えたりもしている。明治21年正月2日に行なわれた新年会（大和会＝日本人会）では、西園寺公から、鴎外の流暢なドイツ語演説に対し、特別に賞辞があったという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　小説より面白いといったら、鴎外にシツレイになるだろうか。それほど面白く、また読み応えがある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　☆あの巨大なノイシュヴァンシュタイン城を造らせた男である。狂王、ヴュルム湖で溺死事件の際には、その2週間後にはもう友人たちと、その湖を訪れている。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文化･芸術</dc:subject>

<dc:creator>Monjirou</dc:creator>
<dc:date>2009-12-14T11:28:26+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/3-c471.html">
<title>独逸日記と鴎外～3</title>
<link>http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/3-c471.html</link>
<description>　当時の欧米人の東洋人に対する蔑視にはじつに抜きがたいものがあったことの証拠には...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　当時の欧米人の東洋人に対する蔑視にはじつに抜きがたいものがあったことの証拠には、鴎外の師ロオトもまたナウマンの演説に同調していたことを挙げれば十分であろう。あれほど鴎外を可愛がり東洋に理解があった筈のかれにしてこれである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　読者はちょうど今ＮＨKで司馬遼太郎作「坂の上の雲」が始まり、劇中、似たり寄ったりのシーンが展開されていたのを覚えておられるであろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あっしらとしても憤懣やるかたないが、これは大国民としてグットこらえ、鴎外の活躍に戻ろうと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　独逸日記をひも解くと、快男児鴎外は、石黒軍医監の供をしてカールスルーヘ（独逸、バーデンーヴュルテンブルク州の街）へ行くが、ここで行なわれた赤十字社の大会で縦横無尽の大活躍をする。当時鴎外は弱冠25歳の青春真っ只中。言語障壁のこともあって、日本代表は沈黙がち。独逸日記にもこうある。「日本委員は別に意見もなきこと故、ただ多数決などを取るとき、大意を松平君★に訳伝し、起立せしむ。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これも歯痒かったのであろう、まず（明治20年）翌9月23日には議場で、防腐療法が議せられたが、これが日本陸軍ではすでにその法律が出来、材料まで用意されている現状を、日本代表に代わって自ら報告した。お陰で当日の夕べ、大候の宮殿で開かれた会合では、石黒軍医監に対し大候夫人から、直々にお褒めの言葉があった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　27日に行なわれた論議。オランダの代表が、ヨーロッパ以外の大陸でも傷病者の救助をすべきかという問題を提出し、翌日も継続審議となっていた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鴎外はそこで発言を求め、ヨーロッパ中心の発想は可笑しい。そこは「一大州の赤十字社は他の大州の」と改むべきであり、アジア以外での戦闘で傷ついたものあれば、日本としては救助は当然と考えるとし、会場は「ブラーヴォ！」の渦に包まれた、と。リンタロー・モリの名は忽ち大会場を席巻した。当日書記席に居たオランダのポムペ☆は、鴎外の脇を通るとき、微笑してその肩を叩いたし、ロシアの枢密顧問官ユセフオヰッチュも鴎外の説に賛辞を呈した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;さらに鴎外は、アンリ・デュナンの提案になるジュネーブ条約の周知徹底の議でも、わが国ではすでに注釈書を士卒に配布した旨を石黒軍医監を通じて報告させた。もちろん通訳（舌人）は鴎外自身である。ロシア代表は、鴎外の肩に指で触れ、目を丸くして感嘆したという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このところを独逸日記で、追跡してみよう。「是より会員の日本委員を見ること前日とその趣を殊にせり。」と。帰途石黒軍医監は「双手もて我手をとりて曰く。感謝々々と。」石黒氏の満足、いかばかりだったことか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　その気持ちは、石黒氏が筆を起こし、鴎外が翻訳し、列席者全員に配った書「日本赤十字前紀」の末尾に曰く、「忠悳独逸語に熟せず。仏蘭語の若きはその未だかつて学ばざる所なり。故に今回の会谷口謙、森林太郎の補助を得ること多し。会場にての応答は森林太郎をして負担せしめたり云々。」と。最終日、大候夫人からも鴎外にお褒めの言葉があった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これを以て鴎外を見るに、かれは文筆の道に進まず、むしろ政界に入り、ある程度の経験をつんだら外務大臣でもやらせてみたら存分に腕を振るい、わが国の為にも大活躍したのではないか、などあっしなどは考えてしまうのだが…。彼自身、そうした道を希望していたということも、どこかで読んだことがある。じじつ「舞姫」の大田豊太郎も、文学青年や画学生でなく、法律を学ぶ青年ということになっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　★　松平乗承。子爵。日本赤十字社代表。会場は国会議事堂で、貴賓席にはカルル王夫妻も臨席された。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　☆ヨハンネス・ポンペ。オランダの軍医。長崎で日本初の養生所を、松本良順らと創った。司馬遼太郎著「胡蝶の夢」なぞでお馴染み。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>文化･芸術</dc:subject>

<dc:creator>Monjirou</dc:creator>
<dc:date>2009-12-13T15:47:49+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/2-9528.html">
<title>独逸日記と鴎外～2</title>
<link>http://monjirou.cocolog-nifty.com/mon1/2009/12/2-9528.html</link>
<description>　昔はとても考えられないようなことが今は当たり前の世の中になっている。たとえば、...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;　昔はとても考えられないようなことが今は当たり前の世の中になっている。たとえば、名のある世界的なピアノコンクールなどで日本人が1位から3位までを独占したり、世界ケーキコンクールで日本人が優勝。パスタのコンクールで日本人が一位、お膝もとのイタリア人が2位に甘んじているなんてことは、今では別に珍しいことでも何でもなくなっている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　留学なども、むかしは官費に限られたので、余程の人物でないと海の向こうへなど行かれはしなかった。ところが、今ではアルバイトで金をため、自費で行くものもケッコウ多いようだ。教材なども選び放題だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鴎外の時代は、よろず思うに任せぬ状態だっただろうことは想像に難くない。「独逸日記」を読んでいて一番の痛快事は、例のナウマン論争だと思う。ご存じない方にチョッと説明すると、事の発端は明治19年3月6日地学協会で行なわれた「日本」と云う演題のエドムント・ナウマンによる演説だった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ナウマンは地質学を専攻するいわゆるお雇い外国人で、小型の象、ナウマン象で有名だ。この象は長野県の野尻湖なぞで発掘され、研究発表したかれの名をとってナウマン象と名づけられた。この象は当地佐倉でも発掘された。発掘地点には、現在その説明板が立っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　滞日年数も長く、その功により日本政府から旭日賞まで受けたこの人物が、300人の聴衆を前に、かれの目に映った日本論をぶちあげた。その内容はかなり偏見に満ちた受け狙いの演説だった。これを聞いた鴎外は大いに憤激。だが、ナウマンは当日のメインゲストだったので、グットこらえて晩餐会に臨んだ。ここでもまたナウマンは得意の日本論を展開したのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　このテーブルスピーチへ行く前に、ご参考までに当日の演説でナウマンが何を云ったかを、ご紹介しよう。日本の文明開化は自発的のものでなく、外圧でやむなくやっているものだ、その例をお見せしよう。ある日本人が外国から汽船を買った。いろいろ外国へ航海してみて最初は有頂天になっていたが、何分にも機関を動かすことは知っても止める事ができず、運よく故国に帰り着いていながら、機関の止まるまでずっとずっと漂流を続けていたんだとさ。まあ、連中の知能の程度なんて、この程度のものなのさ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　万雷の拍手に気を良くしたナウマン、調子に乗ってこんどはテーブルスピーチでこんなことを言い出したと云う。おれは東洋へは行ったが、仏教には染まらなかった。なぜって仏教ってのはね、女を差別するんですよ。お分かりでしょ、だから淑女のみなさん、わたしは仏教だけは御免なんですよ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　我慢に我慢を重ね、怒り心頭で食物も飲み物もマッタクのどに通らなかった鴎外、ここでやおら起ち上がり得意のドイツ語を使って反論に出た。かれは師のロオトに発言を求め、ロオトは地学協会会長の許可を取った。鴎外は、まず自分は仏教徒として発言したいと断り「夫れ仏とは何ぞや。覚者の義なり。経文中女人成仏の例多し。是れ女人もまた覚者となるなり。…余は聊か仏教信者のために冤を雪ぎ、余が貴婦人方を尊敬することの、決して耶蘇教徒に劣らざるを証せんと欲するのみ。請ふらくは人々よ、余と与に杯を挙げて婦人の美しき心のために傾けられよと。」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　この名演説で会場は湧きに沸いた。あっしもここを読んだ途端、陋屋で快哉を叫んだ。後日譚がある。ナウマンが、復讐をはかるのだ。その後この地質学者はドイツ有数の新聞アルゲマイネ・ツアイトゥング紙に「日本列島の地と民と」というタイトルで鴎外への反論を展開したのだ。鴎外もこれを駁すべく反論Die Wahrheit uber Japan を草した。まず原稿を信頼できる友人に見せ添削したものを師のペッテンコオフェルに示した。師も鴎外の味方になってくれ、新聞社への紹介状を書いて呉れる。鴎外は論文と紹介状を手に新聞社を訪れる。そこでいくつかのやり取りがあって、鴎外の原稿は2週後の掲載が決まる。正確には12月29日の新聞に載った。これにまたナウマンが反論を書く。ナウマンは日本国から相応の勲章まで貰ってるのに、何が不服なのか、何でそう反日的なのかじつにフシギだ。鴎外も負けずにこれに反論を書く。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鴎外は「舞姫」がすべてではない、こうして日本のために大いに気を吐いた、真の日本男子として記憶されて然るべきだと、あっしなどは、思う。　&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<title>独逸日記と鴎外（鴎外の外国語歴）</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;　 鴎外の外国語歴。黒船が来る前の日本では外国語といえばオランダ語。今から150年近く前（文久2年）に生まれた鴎外は5歳になったばかりでもう語学漬けだ。論孟をはじめ、2年にわたって四書五経の講義をうける。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　これならまだ大して驚くには当たらないかも知れないが、8歳で父からオランダ語の文法を教わっている。当時一体どんな教材を使ったのかぜひ知りたい紋だ。オランダ語については、さらに翌年藩医の室良悦からも教えを受けている。これらが後にドイツ語を学ぶ際に役立ったものと思われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ドイツ語は上京後、10歳にして本郷の進文学社というところで始めている。22歳にはドイツ留学の為横浜を出帆。現地の大学で学ぶだけのドイツ語はすでに身につけていたものと思われる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　そのあとのことは例の「独逸日記」に詳しい。この間の語学研究も多彩だ。明治17年10月11日初めて独逸の地を踏んだ鴎外。到着のその2週間後には英語の個人教授イグネル師の訪問を受けている。英語は翌18年10月6日まで足掛け一年習った。同年11月24日の項には今度は「医師ヰルケWilkeに就いて西班牙語を学ぶことこの日より始まる。」とあり、驚かされる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　19年1月には師ロオトに頼まれ、日本語の教授を始める。生徒数3名。この内にはもちろん、師ロオトも含まれる。時間、週に5時間。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　なお、帰国後の小倉時代には、フランス人の宣教師から熱心にフランス語を学んだことも有名な話だ。これは松本清張の芥川賞受賞小説『或る「小倉日記」伝』にも出ており、お馴染みの話だ。ちなみに同書にはこうある。教えた宣教師の話として「ここにフランス語を習いにくる人は、他にもたくさんあったが、ものになったのは森さん&lt;br /&gt;
だけで、これはズバ抜けていました。うんぬん」とある。&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<title>独逸日記と鴎外（番外編）</title>
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<content:encoded>&lt;p&gt;　学問や芸術の部門ではよく芸術一家や学者一家ということが云われる。たとえば、石原慎太郎、弟が俳優の裕次郎で、息子の良純がタレント、延啓が画家、他に政治家ふたり。ヴァイオリニストの千住真理子のところも、母親文子がエッセイストで、兄弟の博が画家で、明は作曲家。父は工学博士だとか。世界的な棒振り、小澤征爾の所だってそうだ。最初の妻京子はピアニストで、後妻の美樹はモデルで女優。子供は征良がエッセイストで、征悦は俳優。征爾の兄が民俗学者で、おまけに美樹の母、麻木は料理研究家と来ている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　家系ではもっとスゴイのがある。なんと20人の子をなした謹厳実直なヨーハン・セバスチャン・バッハ。バッハの一族で、大なり小なり、音楽家で身を立てたものはなんと200年間で1000人を超すと、ピアニストの中村紘子（「ピアニストという蛮族がいる」）は書いている。これだけ下地があれば、大バッハなどは分けなく誕生するはずだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　ところで、これによってあっしは何を云おうとしたのか。つまり、鴎外の家系に触れたかったのである。鴎外の父は藩の医者で、上京後かなりの地位に付いたようだ。佐倉順天堂蘭学塾で学んだことは前に記した。面白いのは佐藤泰然の写真をみると、頬髯やあごひげを仙人のように伸ばしているが、鴎外の父静男も同じような姿である。この晩年の静男については鴎外の子、於菟が「父親としての森鴎外」に書いている。写真もある。腕は確かで、貧乏人にも優しかったという。森家は代々津和野藩のご典医で、林太郎は14代目に当たる。於菟も東大医学部を出て解剖学者になった。「解剖学」「解剖台によりて」などの著作がある。☆&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　鴎外の妹の喜美子は小説も書いたが、歌人として名高い。若い頃は兄鴎外に指導も受けた。解剖学者の小金井良精は喜美子の夫君である。またショートショートの祖、星新一は良精の孫に当たる。重松泰雄氏に拠れば、二度目の結婚で娶った登志子の実家、赤松家は林洞海の林家、佐倉順天堂を興した泰然の出た佐藤家と姻戚関係。独逸日記にも出る橋本綱常、石黒の師、松本良順は登志子の祖母の兄弟だというし、なお林紀は登志子の伯父、榎本武揚が義理の叔父で、鴎外の親戚と聞きまた、鴎外が一時身を寄せていた西周までが登志子の親戚などと聞くと、ただただ呆れて口あんぐりである。★もうひとりの弟の篤次郎は、三木竹二の筆名で劇評家でもあるが、これも東大医学部出の医者でもあった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　まえに＃3715であっしは「甚だしきは、於莵の子に真章（マクス）、茉莉の子に爵（ジャック）、など孫にまであちら風の命名をしている。日本男子や大和なでしこになぜ、バタ臭い名前をつける要があるのか。鴎外びいきのあっしにも、これだけは許せない。と息巻いてもみても詮のない話ではあるが…。(-_-;)」などと書いたが、於莵の「父親としての…」を読むと、これには深いわけがあるのが分かった。留学中鴎外はミュンヘンでペッテンコオフェル師の寵愛を受けた。その恩義を返そうと、ぺッテン氏のファーストネームであるマックスを、孫の名に選んだのだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;☆　於菟の本を出した昭和書房の広告をみると、新刊に鴎外の弟森潤三郎の「紅葉山文庫と書物奉行」、森於菟森潤三郎共著の「鴎外遺珠と思ひ出」などが載っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;★　鴎外の子も、於莵だけでなく、杏奴、茉莉、類、それぞれに著書がある。また、子ではないが、茉莉の最初の夫（山田珠樹）は辰野隆の時代のフランス文学者。子の爵も仏文学者。二番目の夫佐藤彰は、やはり医者。於菟の子、真章（マクス、富（トム）も医療関係者になった。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<title>独逸日記と鴎外 </title>
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<description>「独逸日記」も鴎外の人となりや作品の背景を知る上でなかなか貴重な記録だ。 「舞姫...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;  「独逸日記」も鴎外の人となりや作品の背景を知る上でなかなか貴重な記録だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;  「舞姫」だけを読むと、斉藤美奈子のように反感も湧くかも知れないが、独逸での日常に注目すると、そんな愛欲に爛れたような生活ではなかったらしいことがよく分かる。鴎外はじつに多忙なのだ。間違っても、浮かれ男なぞではない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;  まず鴎外森林太郎がベルリンの土を初めて踏んだ日のところを覗いてみよう。明治17年8月23日東京を発った鴎外が伯林へ着いたのは同年10月11日、午後8時半のことだった。ついた翌日から精力的に動いている。学友の佐藤と連れ立って訪独中の橋本軍医監、大山陸軍大臣、青木公使などを訪ねている。その3日後にも橋本氏の送別会につらなり、その3日後にも橋本氏を鉄道駅に見送るという忙しさ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; 22日には伯林を発って、ひとりライプチッヒへ向かう。この日は友人、萩原三圭の案内でかれのホテルへ旅装を解くが、23日には指導を受けるホフマンを訪ね、町の東北に当たるタール街のエドアルト・ヴォールというバーサンのやっている下宿に落ち着く。観察眼の鋭い鴎外はこの町では、2階と云うとき、ドイツ語を使わず、フランス語でプルミエル・エタージュというと記録している。また、部屋の造作についても詳細に書き残している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　さいわい隣室に友人の飯島が泊まっていた。翌日24日からはもう大学へ通い始めた。夕食は下宿でもよかったが、かれはライプチッヒ大学に近いリービッヒ街のフォーゲルと云う名の老女のところに決めた。ここは実に国際交流には打ってつけの店で、ドイツ人、ギリシャ人、アメリカ人、イギリス人などが常時顔を揃えた。さすが勉強家の鴎外、この日から夜のあいた時間にはドイツ詩人の詩集に親しむことにした、などと書き付けている。また11月に入るとひとりで観劇に出かけている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　翌明治18年の元旦は、ドレスデーンの水晶宮と云う名のホールで迎えている。土地の風習として知らぬ仲でも握手して、お互いに「プロジット・ノイヤール」と声を掛け合うのだと解説している。2月の中ごろには、地元の新聞に鴎外のことが載る。勉学研究は人並み以上にこなしつつ、友人間でのバースデーパーティに招いたり招かれたりのほか、明治19年の1月末には、地学協会でドイツ語による「日本家屋論」の講演をやって喝采を博している。このときは文字通りの満員御礼で、飲み物の売り上げが急増し、売り子のメッチェンから礼を言われたりしている。前年の2月にも同じ地学協会で日本陸軍衛生部の編成と云う演題で演説し、これはのちに地元Jaresberichtに(万国軍医事業進歩年報)に掲載され、鴎外はそれによる稿料27マルクを得ている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　 鴎外の語学力は驚異的で、それは友人、田中正平にフライタークの「祖先録」を贈る際に献辞をドイツ語で書いたのでも知れるが、さらに驚くのはそれがチャンと韻を踏んでいるのである。また、明治18年8月13日のくだりにも「架上の洋書はすでに百七十余巻の多きに至る。」という記述にも表れている。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


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<dc:date>2009-12-01T23:49:19+09:00</dc:date>
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<title>エンターテイナーとしての鴎外～3 </title>
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<description>この物語集を読んでいて、鴎外の新しさを発見。(＠_＠;)たとえば、もう返却してし...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;  この物語集を読んでいて、鴎外の新しさを発見。(＠_＠;)たとえば、もう返却してしまったのでいまどうこう言えないが、（上）のなかに、超訳をにおわせる記述があり、超訳と言えば、アカデミー出版の本（1980年代に「ゲームの達人」が大ブレーク）が、有名だが、鴎外の時代にすでにこれを試みたとすればスゴイことだと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　また、（下）の中の「フロルスと賊と」では、文頭に原書にはない人物紹介を書き加えている。鴎外自身、物語の後に『この訳稿の首☆に人物の目録を添えたのは、脚本には有っても、小説には例のないことでうんぬん』と自画自賛している。しかし、これがなければ、後世の読者はみな、最初から、つまり原作者が書いたものと思って仕舞うだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　あっしらの子供のころ、よく物語の始めに、ルイ　悪漢　ベルナール　刑事とか書いてあったのは覚えているが、これらが発表されたのは明治時代である。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;　☆　首は、はじめ、と読むらしい。&lt;br /&gt;
&lt;/p&gt;</content:encoded>


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